生産活動に見る縄文と弥生ー182 (通巻第533号)

 「人が何かに働きかけ、その何かがそれに反応して...」と第三の複合された意味の形成の過程を説明した。だが、この説明は実は全面的なものではない。人に限らず「何かの物が、或いは何らかの事柄が他の何者かに作用して...」と語り出すべきものであったのである。「 n から p への子音の転化 」がもたらす意味の高度化は、人が主体となって行う行為に関わるものには限定されず、事物の動きに関するものにも適用されるという事である。

▽ アイヌ語に「 sampe =心臓 」という重要な語彙がある。以前に擬音語・擬態語の問題を取り上げた時に、この sampe という語彙は古くは「 rampe = 律動するもの 」と言い、語頭の r が s に変化して成立したものではないかと述べたことがある。
 それは今も変わらない私の見方なのだが、アイヌ語には物の名付け方で興味深い特徴があって、それは物を一面からだけ見るのでなく、多面的に色々な方向から見て、それで目についた幾つかの特徴を、一語で表すような言葉を選び、名付けるという傾向である。体の中で「 ramram ・ズンズン 」と低く律動するという心臓の在り方の他に、「血液を送り出し回収する」という、より複合し高度化した大切な機能を表す言葉として「 sampe 」が成立したのではないかと私は考えている。

▼ sampe の語源、語の構成は恐らく「 san-pe 出る・もの 」であろう。出るものは何かと言えば、それはもちろん血液である。
血液は心臓から出ると全身を経巡り(へめぐり)、そして心臓へと還って来る。狩猟を重要な生業(なりわい)としたアイヌ民族は、動物の解体を日常とした暮らしの中で、心臓のこの機能は、小さな子どもでさえ体験を通して学ぶでもなく身につけた当たり前の知識であった。「 san 」は、「出る」という原初の意味から出発して、次第に「出て、そして何かを持って還って来る」という次元の異なる意味合いを獲得して行ったのだろう。繰返し述べてきた事なので、これ以上の説明は省こう。

△ だが、一つの疑問を呈する慎重な方もおられるかも知れない。それは、心臓の、その「出て、戻って来る」という意義を表すには、「 san 出る 」ではなく「 sap 出て戻る 」の方が相応(ふさわ)しく、従って、血液が「出てそして戻るもの」と言いたいのであれば、「 sap-pe 」になる筈(はず)ではないか、と。

◎ その通りなのである。だが、ピー音の重複を避けて語の意味合いを明確化するという言葉に内在する要請が、言わば言霊が、
この言葉に san という言葉を選ばせたのだと私は考える。
   (次回につづく)

# by atteruy21 | 2019-02-19 10:55 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー181 (通巻第532号)
 アイヌ語動詞語尾の子音の「 n 」が、同じく子音語尾の「 p 」に変化することによって、換言すると、視点を変えて「子音の語尾の n を p に変化させることによって得られる効果は何なのか」と問えば、それは以下に掲げる何点かに在るという事になるだろう。
...アイヌ語学者の知里真志保(ちり・ましほ)氏の指摘では、動詞の語尾子音のエヌがピーに変わるケースはたった七例、七組の語彙の集団だという。わずかな数の組合せなので全て列挙しよう。
▽ ① ahun → ahup (外から内へ)入って行く、入って来る  ; ② asin → asip (内から外へ)出てくる、出て行く
  ③ ran → rap (高所から低所へ)降りてくる、降りて行く ; ④ rikin → rikip (低所から高所へ)登ってくる、登って行く
  ⑤ san → sap (山奥から浜へ)出てくる、出て行く    ; ⑥ makan → makap (浜から)山奥へ行く、山奥へ来る
  ⑦ yan → yap (海から)陸へ上がって来る、上がって行く...以上の七組である。

▼ それでは、この七組の語彙の対立が表す状況・状態の違いは、いったいどんな点に在るのだろう。勿論それは一つではない。順不同で思い当たるままに並べて見よう。
 (1)先ず第一の点は、それが立場・視点によって方向が変わる関係を示すという点だろう。「入って行く」、「入って来る」という点では、例えば、あなたが客であって友人の家へこれから入って行くのか、それとも友人の方が客で、貴方の家へ礼拝をして恭しく入って来るのか、風景は全く異なる訳である。
 (2)第二の点は、第一の「方向が変わる」という意味から付随して導かれる意義だが、「交互に」とか「反復して」という観念である。「繰り返す」と言い換えても良いだろう。これら七組の語彙は、全て日常生活の中で常に繰り返し行われる行為や動作を表しているのは、偶然ではないのである。アイヌの古人は、山へ行ったり山から帰って来たり、海へ漁に行けば、大漁か不漁かは分からないけれども、必ず古丹(コタン)へ帰って来たのである。そんな繰返しが、アイヌ(人間)の日常であったのだ。
 (3)第三の点は、実は、これが一番大切な「 n から p への転化の秘密」に繋がる語意なのである。それは、「人が何かに働きかけて、或いは何かを為(し)て、その何かがそれに反応をして、姿・形( = 状態)が変わって此方へ還って来る」という、次元の全く異なる意味合いを獲得するということである。
◎ 第三の意味の事例を幾つか挙げよう。「 san 」と「yan 」に関連する語彙「 sanke (= sapte )」と「 yanke (= yapte )」と言う言葉である。ともに「下ろす」とか「上げる」などの単純な動作・運動の観念を表す基礎的語彙なのだが、人間の行為に伴う特別な意味合いを獲得して行くのは、既に皆さんご存じの通りである。sanke という言葉は、猟師が山へ行き獲物を背負って山を降りるを意味するし、 yanke と言うのは漁師が捕った魚を漁港に水揚げするという意味も有るのだ。 (次回につづく)

# by atteruy21 | 2019-02-18 11:10 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー180 (通巻第531)

「 asin = 償う 」という観念について、いま暫く検討を続けよう。アイヌ語や大和言葉の枠組みを越えて、広く世界の異なった文化の感覚を取り入れて考えるため、英語圏の「償う」がどういう言葉、意味の構成になっているかを、英英辞典で見てみよう。
意外な事柄が眼に入って来るかも知れないのだ。出典は Longman Dictionary of Contemporary English による。

▽ compensate  
 ...to provide (someone or something )with a balancing effect for some loss or something lacking ;...
  誰かまたは何かに対して、損失なり欠損に見合った(補うに足る)効果のある物を用意(与える)すること...
(私の注釈) compensate と言うのは、ラテン語由来の con-pend (ともに・吊り下げる)が語源であって、要は「釣り合う、釣り合わせる、バランスをとる」という意味である。それが損害に対する賠償・弁償の語義を生む訳である。

▼ この損害賠償の基本的観念は、少し分野を変えてみると、他民族との交易の場に於いても、此方から相手に渡す物品の価値に見合うだけの、相手方からの財物の提供を求める観念へと繋がって行く訳である。こちらから相手に対してする行為と、それを承(う)けての相手方がこちら側に対してする行為が、価値的に釣り合うことが、この「償う」という観念の肝(きも)なのである。

◎ さて、asin の意味の捉え方の問題も、一定の結論めいたものを出さねばならない段階に差し掛かったのだろう。asin という語は、一種の複合的な意味合いを獲得した、より高次の語彙であって、物を「出す」や物が「出る」の範疇を越えて、「物をやり取りする(=交換する)」、更には「交易する、損害を賠償する」までを意味するように発展したのだと、そのように私は考える。
...こうした発展を可能にさせた言葉に内在する力、神秘な言霊(ことだま)の力は、いったい何に由来するのか。何処からやって来るのか。それは、(古)アイヌ語の子音 n が p へと転化したことに由来するものだと私は主張したいのである。

☆ 「 asin 」という言葉は、「 asip 」という互いに意味を補い合う兄弟の言葉と連動して、方向の異なる運動や行為の統一、矛盾をする関係の止揚を意味する高次の言葉である。そういう高次化のエネルギーの源が、何故 n → p の図式から生じるのか、次回以降の課題となる。それが、とりもなおさず tan から tap への音韻転化の秘密の解明になるわけである。

   (次回につづく)

# by atteruy21 | 2019-02-17 13:48 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー179 (通巻第530号)
 なかなか tan から tap への音韻転化の話にならないと、ヤキモキ気を揉(も)んでいる方も有るかも知れない。「 asinpe 」の話は遠回りでもないし道草食いでもなく、直接に近く tan から tap への変化の秘密に繋がる、その橋渡しの役割をもった重要な問題なのである。もう暫くお付き合いを頂きたい。

...「 asinpe 」という言葉を確認して見よう。中川辞典を見てみると...
アシンペ asinpe 【名詞】償いの品。...とある。この項目の直前にアシンの項があり、動詞1(一項動詞)で「外に出る。現れる」とだけ記述がされているが、アシンペなどとの関連については何も触れられていない。
 同じ発音をもち語意の異なる言葉が有る場合、中川辞典ではその語彙の関係について何も語らず、ただ並列して意味が述べられることが多い。それが中川教授の賢明なやり方なのかも知れない。辞書・辞典の類いを編纂する場合、通常は同一の音を持つ語彙には、何らかの形で両者(三者・四者もある)の関係に言及するものである。それが編纂者のとるべき普通の態度である。
 同音異義語なのか、それとも兄弟姉妹の、或いは遠い親戚に当たる言葉なのか示すべきである。同音異義語であるのなら、その意味の違う事象が、なぜ同じ音で表現されるのか。そこまでヒントだけでも教えてくれるような、そんな辞典が優れた辞典と言えるのだろう。辞典を繰って、言葉の更に深い意味を知ろうとする読者のために、何らかの情報が得られるような構成に辞典は編むべきなのである。勝手な素人のお説教はこれくらいにしておこう。

▽ asin (出る)という方向・運動を根本義とする語彙が、なぜ「償う」という複合的な意味を表し得るのか。単純な運動の概念が人間関係の調整を表すような複合的な高次の意味合いを獲得するに至る、その筋道を探ることは果たして可能なのだろうか。人間社会に於いて「償う」という観念が生じるためには、その社会が個々の構成員にとって役割と責任が伴い、かつ、その自由意思が尊重されるという社会的合意の形成が必須の前提であり、条件となる。構成員の間で何らかの行為による損害が生じ、その損害を生じさせた本人が、その行為に自由な選択の幅があった場合にだけ、「 償い= compensation 」という観念が生まれる訳である。
 自由の無い奴隷は、誤って主人の財物に損害を与えたとしても、それを償う関係に立つことなど無かったのである。尤も、その損害が甚大であれば、もちろん奴隷はその命をもって償わされることは有ったのだが...。

▼ 「償う」という観念は、大袈裟に言えば一種の契約社会でのみ成立する。成熟した、発展した社会でなければ、償いは言葉としても発生しないのである。狩猟採集社会では償うの観念は生まれにくいものなのだが、アイヌ古人の社会は、只の狩猟採集社会ではなく、遠洋にまで小舟で進出した交易を重要な生業とする社会でもあったのである。  (次回につづく)


# by atteruy21 | 2019-02-16 14:05 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー178 (通巻第529号)
 アイヌ語には専門外の農学博士の高倉新一郎氏は、アイヌ語の「 asinpe (賠償に出す物)」という語彙に、自分なりに研究した結果として、その語源を「 asir-pe 新しい・もの 」ではないかと分析し、外国との交易により得たものと解釈された。つまり、
外国から来た「新来の・物 asir -pe 」が語源だという訳(わけ)である。

▽ この語源説はしかし、肝心の 「 asir (新しい) 」という語の、語尾の子音の「 r 」という音(おん)が、何故「 n 」という音に変わってしまうのかということの十分な説明が出来ないという、大きな弱点を持っているのである。知里氏はその事を捉えて「音韻転化の法則も知らない、正にアイヌ語のイロハも分からない人が...」と言って高倉説を一蹴した訳だが、音韻の転化論の誤りの一事(いちじ)を捉えて高倉説全体を葬り去ろうとしたのは、明らかに知里氏の傲慢(ごうまん)の為せる業(わざ)であって、「ケンソンな気持ちと学究的な態度」からするものとは言い難いものである。

▼ そう言う知里氏自身も、「asin-pe 」という成語が、何故「出るもの」ではなく、「(賠償に)出す物」を意味することが出来るのかに就いて全く説明することが出来ないのである。それにとどまらず、矛盾など何も無いような、何処吹く風といった風情(ふぜい)で、説明しようとすらせずに澄まし顔でいるのは、専門家を自認する人物にしては恥ずかしい限りである。私が尊敬する知里真志保という人物は、群を抜く優れた知性と、その反対側の人間的弱点の交錯し混在する、いかにも「大人物」な訳である。
◎ 音韻転化の法則への理解が十分でなかったとしても、高倉新一郎という人は、やはり天才の名に値する人だと私は思う。高倉氏の「交易で得た新来の品」という位置付けは、途中経過を誤ってはいるものの、結論は正しいものになっているのである。
...例によって、結論から先に言う「遡り論法」を用いて説明しよう。「 asin 出る 」と「 asinke 出す 」という語彙を、単に横に並んだ対立関係にある語彙と見ている限り、この語の正確な理解には永遠に到達出来ないのである。「アシン」と言うのは、その横並びの対立関係を超越し止揚(しよう)した時、初めて水平線の上に現れる、次元を異にする語彙なのである。 

☆ 「 asin , asip 」という言葉は、敢えて言えば「やり取りする=与えたり貰ったりする」に該たろうか。換言すれば、例えば金銭や物品を授受(じゅじゅ=受け渡し・やりとり)する関係を表す。前にアイヌ語の双方向性を論じた時に述べた、あのアイヌ語の世界に例を見ない性質を体現した、そういう語彙なのである。やる方と貰う方の双方から見た、一見すると二つの別々に見える行為が、ただ一つの語彙で表現される訳である。喩噺ふうに言えば、アシンは「賠償を出す」を意味するとともに、そのまま「賠償を受ける」をも同時に意味するのである。高倉氏の「新来の交易品」という訳(やく)が、必ずしも間違いとは言いきれないのだということの詳しい説明は次回に持ち越すこととなる。お楽しみに !  (次回につづく)

# by atteruy21 | 2019-02-15 12:12 | Trackback | Comments(0)