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(3)アイヌ語と日本語って本当に似てるの ? ー日本語「貝(かひ)」とアイヌ語「 Sey (貝)」ーその67 (通巻第2189号)
 🔷 アイヌの先人たちを、他の北方民族は何と呼んだか(続き)
 ...まず、漢字で書かれた【骨嵬(クーウェイ)】の説明から
 【骨嵬】と言うのは、あの元軍(モンゴル)と勇猛果敢に戦ったと中国の史書に登場するアイヌ民族を指すと思われる民族の名である。九州の博多に攻め込んだモンゴル軍の侵略とほぼ同じ時期に、「北の元寇」と呼ばれた樺太への侵攻があったのである。
 鎌倉武士団と同様、樺太のアイヌがモンゴル軍と戦い勝利を収めたと記録されているのだ。

▽ 【骨嵬】って中国語じゃないか ! 北方民族の言葉でアイヌを何と呼んだんだ ❓
...言葉の説明には、順序と言うものが在って、まず中国語(漢字)での説明が分かり易いのだ。だから、まず漢字の説明をしよう。
 🔺 骨嵬は外国語に当てた宛字、だから文字一字一字の意味には囚われない方が良いのだが、せっかく御目にかかった珍しい字だから、【嵬】の字の意味だけは読者の方にお示しして置こう。

▼ 【嵬】の意味は、(山などが)高いの意 !
...「嵬」は現代中国語では wei と読む。外国人の言葉の発音の音訳で用いられるものであり、使われた文字の意味とは余り関わらない。
 🔵 だが、単に表音文字で使われる例は少なく、何らかの意味がこの民族名の表記に籠(こ)められていると考えた方が良い。
 登場の仕方が、元軍と勇猛に渡り合った民族と言う事なので、或いは「勇猛な」と言う意味合いで「嵬(高い・抜きん出た)の文字が選ばれたのかも知れない。

◎ 中国人が聞いた「 Kuwei 」の音は、どの民族の言葉か ❓
...同じ中国語で表したアイヌを意味する言葉(漢字)に、【苦夷(クーイー)】がある。
 ⭕ 北方民族の一つにニヴフと言う民族がある。その「ニヴフ族」の言葉に、アイヌ民族を指す言葉に「 Kuyi (クーイー)」と言う呼び名があり、中国人はこのニヴフの言葉のアイヌ民族を表す呼び名に【骨嵬】や【苦夷】の宛字をしたのだと考えられる。

☆ 何故ニヴフの人々はアイヌ民族を「クーイー」と呼んだのか ❓
...その問題に迫る為には、やはりニヴフの人たちがどんな民族だったのか、それを知ることが第一だろう。
 🌏 ニヴフ ー Wikipedia より引用
 ニヴフは、アムール川河口付近と樺太(サハリン)に分布する少数民族である。
 民族名の「ニヴフ」は(中国)大陸のアムール川下流部で(暮らす人々の言葉で)「人(人間)」を意味する言葉に由来し...
    ( 次回につづく ・ Suy u-nukar-an ro ! )

# by atteruy21 | 2023-10-04 11:40 | Trackback | Comments(0)

(3)アイヌ語と日本語って本当に似てるの ? ~ 日本語「貝(かひ)」とアイヌ語「 Sey (貝)」ーその66 (通巻第2188号)
 🚢 奥州藤原氏は、北方民族との交易を通じて東アジアの広範な物流の要石となる位置と役割を果たしたようだ。その役割を担う事が出来た所以(ゆえん)は、一(いつ)にかかって藤原一族が蝦夷(えみし)の血を引くと言うその一点に在るのだと私は考える。
 🔷 極(ごく)近い親縁関係~樺太アイヌと奥州の蝦夷 ‼
 奥州藤原氏の頭領たちは、自らを「東夷の遠酋」と位置付け、或いは「俘囚(ふしゅう)の上頭」と名乗った。いずれも蝦夷であることを強調する自称である。しかも、その自称は自らを卑下するものでは決してなく、蝦夷の血の流れを誇りに思うという文脈で語られたものである。

▽ 北方民族の一つとして...縁が深いアイヌ民族と北方少数民族
...アイヌ民族の故地(=故郷)は、少なくとも本州の東半分と北海道の本島、及び樺太の南部と千島列島の島々を含む広範な地域であった。そう私は考えている。そして、そのアイヌ民族の基になった人々は、ほぼ日本列島の全域で繁栄した縄文文化の下で暮らした人々、つまり「縄文人」であったのだと、そう信じているのだ。
 🔺 ご承知のように、縄文人と呼ばれる事になる人々は、木の葉のような小さな丸木舟に乗って、何と遠く中国大陸や沖縄を含む南の海の島々まで交易に出掛けていたのだ。

▼ アイヌの先人たちを、北方の少数民族の人たちは何と呼んだか ❓
...現代に生きるアイヌの血を引いた人々も、大まかに言って人懐っこい性格の人が多く、おまけに外国人ともすぐに仲良くなるタイプの人が居て、外国語をマスターするのが得意なのだ。統計的調査をしたものではないので、断定は出来ないのだが、私の今までの経験ではこの事は間違いなく言える事である。
 🔵 これは民族の血の中に、古い時代の縄文人やアイヌの先人の血が今も通っている為ではないかと、そんなメルヘンを私は信じているのだ。
 そんなアイヌの先人たちを、北方民族の人たちは何と呼んだのか、興味をそそられるのは私だけではないだろう。

◎ 古い時代のアイヌを指したと思われる民族名を考える ❗
...アイヌ民族は、古く他の北方民族の人たちから様々に呼ばれて来た。
 ⭕ 中国語(漢字)で表記された名称から、往時のアイヌ民族の呼び名を探り当てる事は、簡単ではないのだが不可能と言う訳でもない。
...まず有名なものから行ってみよう。
  【骨嵬】~ こう書いて、これで【クーウェイ】と現代中国語では発音するのだ。これを取っ掛かりにして推論を進めよう。
      ( 次回につづく ・ Suy u-nukar-an ro ! )

# by atteruy21 | 2023-10-03 11:42 | Trackback | Comments(0)

(3)アイヌ語と日本語って本当に似てるの ~ 日本語「貝(かひ)」とアイヌ語「 Sey (貝)」ーその65 (通巻第2187号)
 🔷 ミイラ造りの文化とその言葉は、どのように奥州の藤原三代のミイラ造りや樺太アイヌの葬送文化に入り込んだのか ?
...藤原三代の文化的隆盛を支えた北方民族との交易 ❗
 インターネット検索 交易と交流|平泉の文化遺産 (続き)

▽ 北方の少数民族との交易を統括する~奥州藤原氏の立場と位置
...藤原氏は安倍氏から奥六郡を引き継ぎ固有の領土とするが、同時にその北の糠部(ぬかのぶ)や津軽、東の閉伊(へい)に支配を及ぼしたとされる。
 🔺 近年、大石直正らは平泉に直結する出土遺物の分布状況をもとに、津軽地方を含む北奥が歴史上、陸奥国の一部に編成されたのは藤原氏の力によるもので、12世紀段階にはその強い支配下にあったと主張している。
 『吾妻鏡』によれば、二代・基衡(もとひら)が京に送った支度料のなかに、鷲の羽とアザラシの皮が含まれている。
 ...この鷲とアザラシは北海道の産物であり、藤原氏は北奥を介してその地にやって来る北海道の住人から鷲の羽やアザラシの皮などを入手し、都に送っていたのである。

▼ 中尊寺伽藍の落慶供養の願文に見る...初代清衡の壮大な夢 ❗
...初代清衡は、中尊寺伽藍の落慶供養に当たって、京の文筆家に依頼し有名な「落慶供養願文」を捧げている。清衡はこの願文の中で「粛慎悒婁之海蛮」は太陽に向かう葵のようになった。そこで「羽毛歯革之贄」を滞りなく都に送る事ができたと述べ、自らが北方の人々との交易活動を統括する立ち場にあることを説明している。
 🔵 私の語註 羽毛歯革之贄
 ...「羽毛」は、鳥の羽毛や獣の毛皮のこと。具体的には、鷲の羽やアザラシの皮などを指す。また、「歯革」は海獣などの牙を指し、象の牙等もここにふくまれる。
 贄(にへ)というのは、朝廷や寺社に捧げる食料などの貢ぎ物の事である。

◎ 北方交易が奥州藤原氏の力の源泉 ‼
...藤原氏は、北奥地方を支配下に収め、この地を介在して対北方交易を積極的に展開し、自らの富の源泉の一つとしていた。
 しかも、藤原氏はその統括した交易活動をもとに、貢物を朝廷に進上する地位に在ったとされ、このことは、朝廷を含む当時の支配層の間に広く認められている事であった。

☆ 北方民族との交流・交易を通じて広く世界に眼を向ける
...続きは、次回に語ろう。  ( Suy u-nukar-an ro ! )

# by atteruy21 | 2023-10-02 15:41 | Trackback | Comments(0)

(3)アイヌ語と日本語って本当に似てるの ? ~ 日本語「貝(かひ)」とアイヌ語「 Sey (貝)」ーその64 (通巻第2186号)
 どんなルートで「ミイラ」と言う語は樺太や奥州に入ったのか ❓
...前回、こんな問いでこのブログを閉じた。どうやら、遠くエジプトのミイラ造りにからも影響を受けているらしい、そんなアイヌの先人たちのミイラ造りは、一体、ナゼそんな遠くの文化と関わりを持つのか。

▽ 縄文の舟人たちは、日本列島に止まらず東北アジアの交易にも活躍した ❗
...《サイト》交易と交流|平泉の文化遺産 (一部引用)
 🔺 奥州藤原氏が広範な(国内外)交流・交易を行っていたことは、古くから知られている。
 都の文化を大量に摂取していた藤原氏にとって、まずもって京都と平泉を結ぶ交通路が最も重要で、この交通路は、藤原氏の言わば政治的・文化的動脈の役割を担っていたのである。
 奥州藤原氏が都で調達した仏像、仏画、経典などさまざまな工芸品や織物、その(購入)資金としての砂金などの運搬のほか、朝廷に貢進する物品、中央貴族や有力な寺社に年貢として届ける物品の搬送などがあり、陸路は言うに及ばず、海路も頻繁に利用された。

▼ 文化の発信地~奥州平泉 ‼
...『吾妻鏡』によれば、二代基衡は毛越寺(もうつうじ)金堂、円隆寺本尊の造仏を依頼するに当たり、支度料を搬送するため、陸路のほかに海路も用いた事を伝え、奥州藤原氏が海船を使用して大量の練絹を送った事が記されている。
 🔷 当時の運搬ルートは、どのようなものであったろうか。『右京記』に初代清衡の時代に越後で年貢の品が地元の役人によって横領されると言う事件があったことを伝えており、当時の(海の)大道である日本海ルートが最初から利用されていたことが知られている。

◎ 太平洋ルートも既に開拓 !
...その一方、藤原氏は愛知県の常滑窯・渥美窯などから大量の陶器を搬入していることからも分かるように、太平洋ルートもまた、盛んに利用していた。また、藤原氏は中国産の陶磁器、とくに白磁の四耳壷を多量に移入しており、九州の博多に連なる運搬ルートも既に開拓していたのである。(中略)
 ⭕ 平泉藤原氏は、南に向けた交流だけでなく、北に向けた交流・支配も行っている。
 初代清衡は、陸奥国の入り口である白河の関から津軽半島の陸奥湾側にある外ヶ浜までの間に、一町ごとに笠卒塔婆を立て、その面に金色の阿弥陀像を描かせたと言う。
 藤原氏は安倍氏から奥六郡を引き継ぎ、固有の領土とするが、同時にその北の糠部や津軽、東の閉伊(へい)に支配を及ぼしたとされる。 以下、次回に。  ( 次回につづく ・ Suy u-nukar-an ro ! )

# by atteruy21 | 2023-10-01 16:07 | Trackback | Comments(0)

(3)アイヌ語と日本語って本当に似てるの ? ~ 日本語「貝(かひ)」とアイヌ語「 Sey (貝)」ーその63 (通巻第2185号)
 アイヌ民族にもミイラ造りの伝統があった ‼ (続きーその3)
...なぜミイラ造りを樺太アイヌの人々は「ウフイ」と呼んだのか ❓

▽ ウフイ( uhuy )はアイヌ語で「燃える」の意 ~ 遺体を燃やしてミイラにした ❓
...間宮林蔵が見聞きしたアイヌ民族の風習では、遺体の腹部を割いて内臓を取り出したり、アイヌ女性が遺体に寄り添って遺体を清めるなど、ミイラ造りの工程の全体を指して、「ウフイ」と呼んだのだと言う。
 🔷 ご存知の方も有ると思うが、アイヌ語で“ uhuy (ウフイ)”と言うと、それは「燃える」とか「焼ける」を意味する所謂(いわゆる)自動詞の範疇に属する語彙である。遺体に防腐処理を施して、それで遺体が燃えると言うのだろうか。

▼ 遺体を燻(いぶ)してミイラにした ~ 香木を焼いて遺体を燻した...だから uhuy ?
...ところで、日本語ではミイラの事を「ミイラ」と言う。これは無内容の言葉・空疎な繰返し言葉に過ぎない。だが、この「ミイラ」と言う明らかに日本語的でない言葉は、いったい何に由来するものなのか。
 🔺 ほぼ通説に近い考え方に、それはポルトガル語の mirra (ミルラ)と言う言葉が元になったとするもので、その「ミルラ」と言う音が「ミイラ」の語源だとするわけである。

◎ ミルラは香木、エジプトではミイラ造りに用いられた !
...ミルラと言うのは樹脂系の香料で、普通には「没薬(もつやく)」と言う形で知られている。精神的興奮の鎮静効果の他、幅広く防虫・殺菌・防腐作用があり、特に食料などの防腐剤として重用されるなど、貴重な薬品として高い値段で取引された。
 🔵 ミルラが防腐剤として日本でも用いられた ? 樺太のアイヌがミイラを造るに当たって、このミルラを用いたらしい事は、和語に「ミイラ」と言う言葉が使われたことからも推定できる事である。

☆ どんなルートでミルラやミイラの言葉は樺太や奥州に入ったのか ❓
...参考になる (サイト) 交易と交流|平泉の文化遺産
 ⭕ 実は、藤原四代のミイラ造りもこのミルラを用いて行われたのではないか。そう私は考えているのだ。今までの藤原四代のミイラ造りに関するこのブログの記事を注意深く読んで来られた方には、もう見当が付いて居られると思うが、、藤原四代の遺体と棺に、イヤ、遺体を収めた棺に特別な加工が為されている事実、そこにミイラ造りに遺体の薫蒸(くんじょう=燻したり蒸らしたりすること)のための孔(あな)が開けられているのだ。
 遺体の後頭部と肛門に当たる部分の棺の底板に、通気用の穴が明いている。この穴って、一体なんの為 ❓
 次回に詳しい噺をしよう。( Suy u-nukar-an ro ! ) 9月28日~30日、ブログの更新を休みます ❗

# by atteruy21 | 2023-09-27 14:38 | Trackback | Comments(0)