生産活動に見る縄文と弥生ー117 (通巻第468号)
 tap の解析に入るに当たって、最後の地均(なら)しをしておこう。タプやタルという音(おん)が、日本語(大和言葉)と果たして太い血管で繋がっているのかという問題である。今までの論考の中で、 tar という音には大和言葉の「打つ」と同様の何かの効果を狙ってそれを実現する行為を意味するということ迄は解明することが出来た。だが、私は更にそれを越えて、アイヌ語の「 tar 」という音(おん)が、直接に大和言葉の「うつ・打つ」と同根の語彙だと言うことを証明しようと言うのである。

▽ そんなこと言っても、「 タル 」と「ウツ」では発音が違いすぎるではないかと、そういう反論が当然あるだろう。その通りである。だが、その違いは現代語でのみ言えることで、特に大和言葉の方は、上古の時代には、打つは「タッ」ないし「タタッ」と発音されていたのだと私は考えている。幾つかの根拠になるとおぼしき事実が有る。
▼ 誰にでも比較的簡単に思い付くのは、「叩く(タタ・ク)」という語彙だろう。これは勿論、「打つ・打撃を与える」を基本の語意とするもので、正確に表現するとアルファベットで書けば「 tata-h(タタハ )」とすべきものである。何か、どっかで見たことが有ると気が付いた方は、私の噺を注意深く眉に唾をつけて聞いていた方である。その通り、樺太アイヌ語の子音語尾の表記で初めてお付き合いをした、あの特殊な発音である。実は、これが、タル が タプ に繋がって行く秘密の通路なのだが、それは後でゆっくり、ジックリ述べる事として、「タタッ」とか「タッ」がなぜ大和言葉の「打つ」の古語だと言えるのか、その根拠となるもう一つの状況証拠を挙げて置こう。
...状況証拠という言葉を、私は偉そうに、さも専門家のような面をして多用している。「状況証拠」と言うのは、裁判関係用語の一つで、それ一つだけでは物的証拠のように強力な決め手とはならないが、幾つかの小さな証拠が重なれば、物的証拠に決して劣らない強い心証を裁判官に与える、そういう証拠群を指すのである。
◎ さて、その状況証拠の一つに、大和言葉の「ちち = 父」という語を挙げたい。「父・ちち」と言うのは、比較的時代の下った新しい語彙で、しかも「よそ行き」のちょっと取り澄ました趣のある言葉で、古く、庶民の間では、「てて」とか「とっと」とか
呼ばれ、ちょっと気取った貴族社会になると、「おたあさま」とか「おもうさま」とか呼ばれたのである。ちょっと待ってくれ、それって父と母ではないのと言う勿れ。アイヌ語で「ハポ」が、地方によって父でも母でも双方を意味したように、古い大和言葉にも同じような事態が有ったのである。
...父は、タタ、チチ、(ツツは無くて)、テテ、トトと、た行変格活用のような変な語彙だったのである。基本義は、中核となる概念はタタッで、(子や妻を)叩くもの・打つ者の意である。漢字の父と言う字も、片手にもった棒を振り上げて叩こうとする人の形を象ったものだと言われている。タタハ tatah が父の古い語彙(縄文語 ? )であり、アイヌ語の tatap に繋がるのだと思う。 (次回につづく)

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# by atteruy21 | 2018-12-16 14:12 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー116 (通巻第467号)

 心臓が力強く打つことを、鼓動と表現する事が多い。私は和太鼓の演奏を聞くと、いつも感動を覚える。低く、地を這うように体全体を揺さぶる太鼓の音のシャワーを浴びると、何か、体中からエネルギーが湧き上がるような気がするのだ。
...この感覚は、だが私一人だけが感じるものではなく、民族の違いを超えて世界中の人びとの共通の感覚でもあるようなのだ。これは、いったい何処から来るものか。和太鼓の響きが与えてくれる安心感、何か大きなものが我が身を包み込んでくれるような安堵感が漂うのだ。この懐(なつ)かしさのようなものは、何処からやって来るのか。

▽ だいぶ前に、人間の胎児が母胎の中でどのように成長して行くのかを、映像で追う番組を見た事がある。人間の個の発生が、美しい映像とともに描かれ、それだけでも感動的なものであった。胚(はい)の状態から徐々に各器官などが形成・分化し、胎児は一定の月齢に達すると、母の胎内で内外との情報交換を行うようになるのだと言う。
...母の胎内で羊水の中に浮かぶ胎児は、羊水を通じて栄養の交換や排泄物の処理、そして何よりも、内外の情報の獲得を胎内の安全な環境の下に行うことが出来るのだと言う。羊水を伝わってくる母の心音、それは、テレビを通じて聞いた範囲では、耳元で鉄板をガンガンと打つような、お世辞にも美しいものとは聞こえなかった。ただ、それが胎児には安心感を与えるものだというのである。私には工場で鉄板をガンガン叩く音にしか聞こえなかったのだが、その音は、和太鼓の音と共通の因子が含まれているのかも知れないと今は思っている。

▼ ガンガンなのかドンドンなのか、音色の特定はさておいて、問題の「 ram-ram 」という音(おん)は、心音・鼓動の音を表していると私は考えるのだが、あなたはどう感じられるだろうか。人間の安心立命の境地、湧き上がる力の感覚。それは、母の胎内で聞いた心音の記憶がもたらすものだと言うのは、人を納得させるに十分だと思うのである。和太鼓の響きに思わず懐かしさを覚えるのは、やはり私だけではなかったのだと。

◎ アイヌ語に於いては、内容を個別に特定せずに行為の外形的特徴を捉えて括る、一般語法とでも呼ぶべき語法が多いと言うことを私は強調したい。前に、「うつ・打つ」という語を例に、それは、打撃を与えるという基本語意の外に、幅広く効果を狙って行う各種の行為を表すと述べた。アイヌ語の「 tar 」には、このような内容を特定せずに効果を狙って行う幅広い行為を表す、そのような意味があると私は主張したいのである。そこで、その上に立って、更に tar から tap への飛躍を為し遂げようという訳である。   (次回につづく)

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# by atteruy21 | 2018-12-15 17:46 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー115 (通巻第466号)

 鶴が(優雅に)ドシンドシンと舞うという表現は、多くの方にとっては問題外の文章に写るだろう。だが、「 rim-rim 」という
擬音をどう聴くか、どう聞こえるかは、それぞれの民族と文化により、或いは言語によって、大きく異なるのである。例えば英語話者と日本語の話者の間には、理解しがたい越えがたい大きな壁か溝がある。
...例えば、豚の鳴き声を二つの「言語」では、それぞれどう聴きなす(聞き取る)のか。日本語では「ブウブウ」が一般的だが、
英語を母語とする人たちには、それは「 oink-oink オインクオインク 」と聞こえるらしい。オインク・オインクだなんて、何をどう聞いているのかと我々は思う。だが、それは一方的で、英語話者にとっては、「 boo boo 」だなんて、何をいったい聞いているのか、何処に耳を付けているのかねと、そういう噺になるのである。

▽「 結局、擬音などと言うのは、どうとでも聞こえるんだよ」などと、妙に覚めきった見方をするのは正しくない。ものの音と言うのは、種々に聞こえるものだという事を前提として、それでも人の耳には、聞き方には自(おの)ずから一定の法則性も有るのであって、擬音がただの雑音でなく、オノマトペにも一定の定型的な概念が伴うものだということを、きちんと位置付ける必要が有るのである。
...ならば、 rimrim の反対語(?)の ram-ram の方は、どんな音色(ねいろ)にアイヌの古人には聞こえていたのか、具体的に何の音をそれに当てたのかを考えてみたい。くれぐれも押さえておいて頂きたいのは、アイヌの古人には、それは「 ramram 」と表象されていたという事である。ただ、それを現代の日本語話者の耳に置き換え、アイヌ古人の聞いた音の印象に近い、近似的音価を
再現することを試みようという訳である。どんな音に「 ramram 」という音(おん)をアイヌは充てたのか。

▼ ram-ram と言うのは、低い律動音を表すと考えられる。何の音にアイヌはこの音を充てたのか。実は、アイヌ語を母語とする話者が極めて少なくなってしまった現在、実感をもってこの音を聴き、どういう音(おと)かを説明できる人は居ないのである。
 ただ、 rimrim の音が「 rimse 躍る 」という語彙から推測・抽出(ちゅうしゅつ=引き出す)出来たように、 ramram という音も他の語彙からその音の色合いを導き出す事が可能なのではないか、そう私は思うのだ。 ram を含む低い律動音というと、思い当たる事があなたにも有るだろう。
...それは、その物を直接に指す言葉としては既に無くなってしまったが、我々の胸に在ってドキンドキンと低い律動音を伴って血液を送り出す、あの心臓の音、心音に、古アイヌの人びとは ram を充てたのではないだろうか。心音は、「心」に「思う」に繋がって行くことも、私のこの推測を裏付けてくれると思うのだが...。   (次回につづく)

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# by atteruy21 | 2018-12-14 13:00 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー114 (通巻第465号)
 tar というアイヌ語は、特定の語句の中に在って、例えば、「 citarpe 蓙(ござ) 」という語の中では、「継続して作る」とか
「念入りに作る」といった具合に、具体的に何を作るのかは問わずに、つまり、行為の質を問わずに、どのような形で行う行為であるかだけを表すような、そういう語法の一つであると考えられる。アイヌ語には、このような形の動詞などが、かなり多く存在するのである。
...前にも取り上げたオノマトペ(擬音語・擬態語)の例で説明しよう。例えばアイヌ語で「 rim-rim 」という擬音語がある。その
反対語には「 ram-ram 」というオノマトペが有る。アイヌ語に触れたことのある方なら、「 ri 高い 」と「 ra 低い 」が対立関係を表すことをご承知だろう。だから、 rimrim は恐らく高い音を表すのだろうな、 ramram の方は、きっと低い音の出る何かに違いないと、そう思われるだろう。その通りなのだ。だが、事はそう簡単には問屋が卸(おろ)さないのである。

▽ 余りに単純にこの対(つい=ペア)の擬音語を考えてしまうと、妙な事になってしまうのである。笑えない笑い話を一つ。ただ、この笑い話は吉本演芸場に出てくるような噺(はなし)ではなくて、著名な言語学者が、大真面目に自分の辞典に登場させるような、そんな奇妙な笑い話なのである。
...「rimse 踊り・舞い」という語彙がある。「rimimse」とも言う。語の構成は、「 rim リム se ~と言う、と音を立てる」となるが、「rimimse」の方は、重ね言葉の「rim-rim -se」を短縮した形である。いづれも、「リムリム」と音を立てると言う意味で、問題はこのリムリムが具体的にどのようにアイヌの古人に聞こえていたのかということである。勿論、アイヌにはリムリムと聞こえていたのであるが、それを聞いた和人にとっては、自分達に納得出来る音としてはどんな風(ふう)に響いたのかと言う事である。正確に言うと、アイヌの古人も別にその音質を「リムリム」と聞いていた訳ではなく、音色(ねいろ)はともかく、アイヌの古人は、これを「高い音調の律動音」とだけ意識していたのである。だから、それは「コツン・コツン」と聞こえても良いし、「パタン・パタン」でも良かったのである。
▼ ところが、日本人の方はそうは行かない。何らかの音色をつけないと訳文を作る時だって困るじゃないかと。そこで、多くの場合、この「rimrim 」に「ドシン・ドシン」と音の訳文をつけるのだ。これは踊りの一種で「tapkar 」というのが有って、それは勇壮な男の舞いで、大地を蹴り高く躍り上がって舞うものなので、ついその光景に引っ張られて「ドシン・ドシン」という音を当ててしまう訳である。色んな辞書でも、リムリムと聞けば、何でもかんでも「ドシンドシン」と音訳してしまうのだ。
...しかしタプカラ の場合はそれで問題ないが、次の舞の方はどうだろうか。「 sarorunpe rimse 鶴の舞い」という舞の場合は、「rim-rim 」にドシン・ドシンの音訳を付けると、鶴が優雅にドシンドシンと舞うと言う、どうにも収拾のつかない事態に陥ってしまうのだ。鶴の舞は二人の若い女性が向き合って鶴の動作を真似て舞う。とてもドシンドシンとは... (次回につづく)

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# by atteruy21 | 2018-12-13 12:41 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー113 (通巻第464号)

  tar と言う発音が、「続く・続ける」或いは「繋がる」といった意味合いを持つということまではご理解頂けたものと思う。
 私は、さらにここで、もう一跳び皆さんに跳躍を試みて頂きたい。「 tar 」の語義の更なる広がりを、現代アイヌ語に残る言葉の中で似た言葉の比較を通じて、私とともにご自身の眼で確認して頂きたいのである。「 tar 」を含む語句と、「 tar 」は含まないものの、同じ意味合い、同じ性格の別の語句を、じっくり見較べて欲しい訳である。

▽ 「ci-tar-pe 」と言う言葉がある。一般的には、「我らが・編む・もの」と訳され、アイヌの民芸品にして生活用具の、藁や
布を編み上げて作った蓙(ござ)を指す。ただ、通説の立場では、蓙と言う製品が出来た結果から、 tar が「編む」を表す筈だと
そう逆に見立てているだけで、辞書には「 tar = 編む」とは出てこないのである。
...チタラペは、用途の基本は蓙(ござ)で、それは人が座るために敷くカーペットのようなものだが、アイヌの家に必ずある、宝を飾る宝檀に敷いて、その上に宝を安置するだとか、時には遺体を包む柩(ひつぎ)の役割を果たす。いずれにせよ、宝や神や仏様を安置するために使う物なのである。チタラペは、種々の糸を織り込み、編み込んで、念入りに作られるから、見た目にも美しく、
だから部屋の飾りにも用いられる訳である。チタラペの「 タラ 」の秘密は、この「念入りに作る」に在ると私は考えているのだ。

▼ tar を含まないが、同じような美しい生活用具、用具と言っても着物のことだが、同じ語法の「 ci-karkar-pe 」と言う語句が有る。刺繍を施した美しい織物、着物のことである。「 ci 我らが・ karkar 作り作りする・ pe 物 」と分析され、karkar と言う重ね言葉は、「繰返し繰返し手間をかけて作る」と言うアイヌ語に特有の語法である。チカラカラペ と チタラペ の語は、その発想が極めて似かよった姉妹語とでも言うべき言葉だと私は考えているのだ。

...tar は、「継続して~する」と言うのが、その表す原意なのではないか。これが現在の私の見方である。

◎ 遡(さかのぼ)って言うと、ci-tar-pe も、ひょっとしたら、昔は「 ci-tar-kar-pe とか ci-kar-tar-pe 」などと言われていたのかも知れないし、「 ci-tar-pe 」それ自体で、既に「継続して作る」だとか「念入りに作る」と言う語意を獲得していたのかも知れないと思うのである。

   (次回につづく)

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# by atteruy21 | 2018-12-12 20:52 | Trackback | Comments(0)