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アイヌ語と日本語は兄弟(同系)の言語か、それとも他人か-29

 接頭辞「ci-...」の近傍の接頭辞に「si-...」というものが有る。
「si-...」【接頭辞】自分を・自分に・自分の  用法・機能は、ほぼ「ci-...」と同様で、si-turi(自分を・伸ばす)→伸びる
【自動詞】として用いられる。「ci」と「si」がほぼ同じ意味を持ち、似た作用をするのであるが、これはアイヌ語においては、
音である「 ci」と「si」 が、ほぼ同一の音価(おんか)を持っているからだと考えられる。
 同一の音価を持つなどと言うと、なんだか分かりにくいが、平たく言えば、「同じように聞こえる」、或いは「聞き分けられ
ない」ということである。昔、江戸っ子をはじめ関東圏の人たちには、「ひ」と「し」の区別がつけられない人が多かったのは、
年配の人なら覚えがあるだろう。
「こちとら江戸っ子でえっ、気が短けえんだ。あんな野郎待ってたら、日(し)が暮れちまわあ!」などと言ったものだという。
関西での会話にも、「そうでっか、ほな、どないしまひょ。」(=そうですか、それなら、どのようにしましょう。)などという
ように、日本語では「さしすせそ」と「はひふへほ」が同一に近い音価を持っていたと考えることができよう。
 この場合に大事なことは、「日が暮れる」を「ひがくれる」と言おうとして、それでも「しがくれる」と言ってしまうのでは
なく、本人には「ひがくれる」が「しがくれる」と聞こえているのだ、ということを知らねばならないということである。
 さて、「ci-...」と「si-...」の関係に戻ると、共に「自ら」ないしは「自らを」という人称接辞に類似した意味を持つことが
分かった。しかし、自ら(みずから)というだけでは、人称としては、特に神の関与を示す人称としては何かが欠けているのだ。
「自ら」を現代語で「みずから」と読んでいると見えないのだが、少し古風な言い回しで「おのずから」と読むと、見えて来る
ものがある。岩波「国語辞典」によると...
「自ら(おのずから)」【副詞】①ひとりでに、自然に、おのずと ②みずから、自分で...と説明されている。①の用例としては
「おのずから道が開けるであろう。」という文が挙げられている。
「おのずから~する」は、ある行為なり事象の進行が、外部からの隔絶した大きな力が働いて方向付けられているにも拘らず、
恰(あたか)も自発の形で、ひとりでにそうなったというような形で認識される状況を表している。
 同じ岩波国語辞典で「ひとりでに」を引くと、「独りでに」【副詞】作為や他からの力なしに、おのずから、自然に、とある。
実際には大きな力が働いいて、そうならされているのにもかかわらず、その力が意識されずに、自分の方からしている、或いは、
自然にそうなったと思わせるという、裏腹で込み入った関係を表しているということに留意しなければならない。
人称接辞「ci=...」が神と人間の関係を示すものとすれば、隔絶した高みからの力の行使で人間を動かす神に対し、それとは
意識せずに自らの意思で物事を為していると考える人間という図式は、こうした語義とピッタリ符合するではないか。接頭辞の
ci-...が「おのずから」の意味とすれば、神の接辞として「ci=...」が使われるのは、むしろ当然の結果というべきであろう。
  (次回につづく)

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by atteruy21 | 2017-09-27 09:58 | Trackback | Comments(0)