人気ブログランキング | 話題のタグを見る

アイヌ語と日本語は兄弟(同系)の言語か、それとも他人か-88

アイヌ語と日本語は他人である...ってホントなの❓(その1)
 アイヌ語と日本語は、永く隣人だった関係もあって、良く似た単語(語彙)が多く、文法上も語順がほぼ同じであるなど、親類の言葉ではないかという考えが昔からあった。しかし、アイヌ語研究の大先達である金田一京助教授を始め、多くの学者・研究者は
さまざまな点に鑑(かんが)み、両者は全くの別系統の言語であるという考え方が、永く日本のアイヌ語学の主流であった。
 近年、多方面の学際的研究から、両者が全くの赤の他人であるという見方は、見直し再検討が始められた所であるが、いまだに
この「他人説」が多数派であることは、私にとっては、不可思議でもあり、残念至極の事柄である。
 この「赤の他人」説が、今も有力であり続ける理論的根拠とされる考え方の一つに、いわゆる「借用論」がある。「借用論」の
言い分は以下のようなものである。
...「確かにアイヌ語と日本語には、似たような言葉が少なくない。しかし、これは、水が高きから低きに流れるように、文化の高い日本から、未開野蛮のアイヌの言葉に入ったものに過ぎず、アイヌは日本語から言葉を借用したに過ぎないのだ」と...
確かに、隣接した二つの言語間で語彙の借用が生じることは、過去の歴史に照らしても、決して珍しいことではない。しかし、この時代に述べられた借用論は、単に二つの言語の間のやり取りと経緯(いきさつ)を検討するというよりは、アイヌ地を併呑し、
アイヌ民族を同化しようとする、露骨に政治的・政策的な意図の下に為された一方的な論立てであって、歴史的沿革を視野に入れての真摯な検討・吟味を経たものとは、必ずしも言い得ないものであった。
 一つの例が「カムイと神」の関係である。意味的にも、語形的にも両者は極めて良く似ており、この両語が元々同一の語源から
出発したものならともかく、もし別系統の言葉であるのなら、どちらが借り主なのかが明確にされなければならない。単に偶然に
形が似ただけだという言い訳は通用しないのである。例えば、前に検討した「拝む(おがむ)」という日本語に対し、アイヌ語には
「 onkami (オンカミ)」という対応する語彙があるのであって、これを見れば、カムイと神が偶然の語形の類似に過ぎない等とは
口が裂けても言えない話な訳である。どちらが先で、どちらが後でそれを借り受けたのか。この時代の学者たちは、一も二もなく
「アイヌが先進の日本語から借り受けたのである。」と結論付けたのである。
 しかし、ちょっと待って頂きたい。アイヌの祖先の人たちが日本の祖先の人たちと初めて出会った時、自分たちが前から持っている大切な宗教的価値観や見方を、その言葉や振る舞いを、何処の馬の骨か分からない人たちのそれとおいそれと交換するものであろうか。それほどに文化の格差があったのであろうか。
 カムイと神と、どちらが元になったものか。それは両語の古語を観察すれば分かる問題である。種々な方面からの分析・検討が
可能であるが、まず日本語の古語を俎上(そじょう=まな板の上)にのぼせよう。
 神は古語では「かむ」と言い、「かみ」と読むのは時代が下った後の事である。「かむがかり(神懸り)」、かむかぜ(神風)、
かむさび(神さび)、かむながら(神随)、かむなづき(神無月)等々、「かむ」で始まる語は数十以上に上る。 (次回につづく)

名前
URL
削除用パスワード
by atteruy21 | 2017-11-20 15:27 | Trackback(4) | Comments(0)