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もっと知ろう‼アイヌのことーその1(アテルイについて⑤)

英雄アテルイについて(その⑤) 通巻第105号

...「しかも侵略軍は別将丈部善理(はせかべ・よしまさ)、進士(しんじ)高田道成、大伴五百継(おおとも・いおつぐ)などの指揮者を失った。アテルイは壊滅的な打撃を侵略軍に与えたのである。しかし、アテルイの方にもかなりの被害はあった。胆沢一帯の「十四村、居宅八百余戸」が焼き払われたのである。
 ともあれ、この敗戦で侵略軍は戦意を喪失し、天皇の命令の届くのも待ちきれず、紀古佐美は、現地で勝手に軍を解体して都に
逃亡してしまうのである。....(中略).... 
...衣川の敗戦から四年の歳月を費やして、第二次出兵に十万余の大軍が動員される。当時、十万余の軍隊の兵員・武器・兵糧を
調達し、輸送することが容易であったとは考えられない。「まつろわぬ」蝦夷征服にかけた桓武の執念がうかがわれる。
しかし、この空前の軍事行動の背後には、たとえば原勝郎が『日本中世史』に書いているような当時の状態があった。
『延暦以降屡(しばしば)奥地に事あるや、坂東諸国の如きは、此年穀を鎮所に運び、老弱之が為に転漕(てんそう)に疲れ、壮丁(そうてい=成人男子)は鎮兵として白刃の難を冒(おか)すの外、事なきの日に在りては、却(かえ)りて鎮将に役(えき)せられ為に其私田を営まざるべからず、これに因りて疲弊して干戈(かんか)に任(た)えざるもの多かりき。』
ーこれが天皇の国家の関東・東北前線基地周辺の民衆の姿であった。....(中略)...
 第二次出兵の時もまたアテルイ軍に反撃され、胆沢を陥落させることができず、失敗に終っている。『日本紀略』は、『斬首
四百五十七級(きゅう=生首の数え方)、捕虜百五十人、獲馬(かくま=捕獲した敵の馬)八十五疋(ひき)、焼く村落七十五個所』を
あげているが、十万余の大軍を動員してこれだけの戦果である。
 第三次出兵は八○一年(延暦二○)、陸奥出羽按察使兼陸奥守、鎮守府将軍坂上田村麻呂が征夷大将軍になって開始される。だが
この時の戦況についても、今日詳しく知ることができない。『日本紀略』では次のように記されている。
『延暦廿年九月二十七日 征夷大将軍坂上田村麻呂、夷賊を討伏(とうぶく)する』『延暦廿一年正月九日 従三位坂上田村麻呂を
遣わして陸奥国胆沢城を速らしむ』『延暦廿一年四月十五日 夷大墓公(たものきみ)阿弖流為、盤具公母礼(いわぐのきみ・もれ)
等五百余人の種類を率いて降る』
 『夷賊を討伏する』とあるだけで、戦いが行われたことはまったく書かれていない。アテルイが坂上田村麻呂の率いる十万余の大軍を迎え、どう戦い、どういう経過で降ったのか、それも謎である。
 これが《アイヌ民族抵抗史》に述べられた真実の歴史への着眼点である。慧眼(けいがん)であろう。
 歴史を語るのは、勝者である。しかし、それをもっても覆い得ない真実が有ると私は思う。アテルイが不実の和議交渉に応じた
その理由を解き明かすことを通じて、アテルイの人物像を浮き上がらせることが出来るのではないか。(次回をお楽しみに!)

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by atteruy21 | 2017-12-07 10:55 | Trackback(2) | Comments(0)