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アイヌ語と日本語の中に残る「縄文語」ーその99

生産活動に見る縄文と弥生ー52 (通巻第403号)
 タプカラという言葉に絡めて、相撲の四股の噺をしたことがある。昔、千代の富士という名横綱がいた。その土俵入りの姿は、天にも届くかと思われるほど高く高く足を引き上げ、引き締まったその体躯と相俟って極めて美しいものであった。まさに舞いを舞うといった趣があったのである。
 あまり知られてはいないのだが、相撲というのは、その歴史的沿革は神事(しんじ)から発した行事であり、神に捧げられたものだったのである。だから、奉納相撲などという言い方も、そうした経緯を物語るものなのである。

▽ 前にも述べたが、恐らく弥生時代の頃からか、各地の豪族や王(おおきみ)の軍団は、力士の集団を抱えていた。実際に戦闘に活躍するほか、相手の軍や民衆に力を誇示し威圧するという役割があったと考えられている。力士たちは、自らの軍が勝利を得て敵地に入るとき、力強く大地を踏みしめ、手を拡げ天を仰(あお)いで神に祈った。その一連の身振りは力強く大地を飛び、優雅に鳥が空を舞うようであった。それが「素舞ひ(すまひ)」であり、相撲(すもう)という言葉の起こりである。

▼ 敵地に踏み込むに当たって力士は、まず四股を踏んでその土地の魔・荒ぶる神を土地から追い出す。次に、その土地に新たに豊穣をもたらす神を招くパフォーマンスを行う。それが、四股(しこ)を含む土俵入りの元々の意味である。素舞ふ(すまう)という言葉は、「裸で舞う」という意味と、土地を踏み固めて、そこに「住まう = 占拠して居座る」という意味の掛詞(かけことば)に
なっているのは、決して偶然ではないのである。
...モンゴル相撲にも、見方によっては日本の相撲の土俵入りのように見えるパフォーマンスがある。勝った方の力士が大きく腕を伸ばし拡げ、その勝者の腕の下の脇腹を、敗者が頭を下げて通るのである。ただし、これは主に負けた力士が勝った方の力士に敬意を表すなり、負けた方が自ら負けを認める仕草のようで、神前での神へのアピールとは、少し違うようである。

▽ 大地を踏みしめ躍り上がること、それは、大地に巣食う悪しきものを祓(はら)い、同時に、大地が恵む、大地がもたらすべき良きものを、闇の中から取り出して人間の役に立つものにするという、そうした意味を持つものだったと私は考えている。

 日本の古代、大和の人々の相撲に関わる観念が、どこまでアイヌ民族の踏舞( tapkar )に寄せる思いと重なるのか、それは今の私には分からない。ただ、二つの民族の思考の底流に、深く沈殿する共通の感覚が有るような気がするのは、私の思い込みのせいではないだろう。
 次回は、 tap と kar という言葉の検討を通じて、生産と労働、収穫の関係に眼を向けてみたい。 (次回につづく)

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by atteruy21 | 2018-10-12 13:50 | Trackback(2) | Comments(0)