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アイヌ語と日本語の中に残る「縄文語」ーその137

生産活動に見る縄文と弥生ー90 (通巻第441号)
 眼の前をぐーんと延びて行く、或いは逆に、こちらへ伸びて来る、そういう感覚を tun という発音は表している。この語彙の
中核的意義の証明は、やはり、神謡集のあの謡に締め括(くく)りを任せよう。二度目の登場だが良く読んで味わって頂きたい。

△ tapan pon-ay ek-sir-konna ton-natara , sirki ciki ci-santekehe ci-turpa wa nean ponay ci-esikari .
 小さい矢は 美しく飛んで私の方へ来ました。 それで私は 手を差しのべて その小さい矢を取りました。
...この部分をただ漫然と読み過ごさないで頂きたい。知里幸惠さんの伝承では ton-natara と、矢が ton = tom (光り輝いて)
飛ぶと表現されているが、これは、元々の歌詞は tun-natara だったのではないかと考えられることは前に述べた通りである。

 それは、矢が飛んでくること、それも「矢が輝く」という静止した状況の描写でなくて、動的に、矢が「此方へぐーんと延びてくる」という状況を表す描写だと考える方が、前後の文脈にピタリと当て嵌(は)まると私は考えるからである。
▼ 輝く矢が美しいから矢を取ったとも考えられなくはないが、「まっしぐらに飛んで自分の眼前に矢が延びて来た」から、梟の神は思わずその矢に手を差しのべてしまったのである。

◎ さて、本題の「 -atara 」と「 -itara 」の住み分けの規準の問題に戻る。もう多くの方が気付かれた事と思うが、それは、その状況を発生させる述語が一回性のものか、それとも行為の多数回を示すものかの違いによると私は考えている。
... -atara は、基本的に一回の行為・動作により生まれる状況を指す。
kimun iwa iwakurkasi ci-ekik humi rim-natara .「山の岩の上へ彼を打ち付けた音ががんと響いた」。この場面では、主人公小オキキリムイは、悪魔の子をガーンと岩に投げつけるのだが、これは強く一度だけの行為で、何度もガンガンと悪魔の子を岩に打ち付けた訳ではない。ガンガンと何度も打ち付けてしまうと、それは、ちょっと残酷なイメージになり、少年主人公の爽やかな明るい人物像とは相容れないものになってしまう。肩の上まで引っ担いだ悪魔の子を、ここは矢張、ガーンと一発で仕留めてやらなければ、悪魔の子だって浮かばれないのである。

...だが、 -atara も、一筋縄では行かない性格を持っている。神謡集「狐が自ら歌った謡・トワトワト」の前に出た次の語句、
「 inkar-as awa ci-macihi homatu-ipor eun kane hese hawe (konna) taknatara .」という部分の語意をどう捉えるかの問題が有るのだ。ハッハッと何度も息を切らしているが、それが一回性の動作だと言うのかという問題である。
  (次回につづく)



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by atteruy21 | 2018-11-19 10:43 | Trackback(1) | Comments(0)