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 アイヌ語に接し始めてから早くも十年が経とうとしている。
アイヌ語のサークルにも入り、アイヌ語を学ぶなかでアイヌ語と
日本語の関係について考えさせられることが多かった。
 サークルのリーダーの人たちの話では、アイヌ語は世界を見回しても
親戚関係にある言語(同系語)を見出だすことが困難な孤立した言語で、
隣接する言語である日本語(大和言葉)とも語彙(ごい)の点においても、
文法の面においても、全くと言っていいほど、共通性·親和性がなく、
全く別系統の言語であるということだった。
 言語学とか文法となると、素人の私にはあまりものも言えなくなる。
ただ、何となくアイヌ語と日本語の間の距離の近さを感じとってきた
私にとっては、全くの赤の他人だなどという話は、感覚的に納得が
行かず、しっくりとも来ない。
 遠い昔、日本列島を広く覆い、或いはそのかなり広い区域にわたって
通用する「縄文語」とでも名づけるべき言葉が行われていて、それは今の
アイヌ語や日本語に繋(つなが)っているのではないか。そういう見方は
ごく自然に思え、魅力的なものに私には見えるのだが…。
 しかし、アイヌ語と日本語に共通の祖語があったのではないか、などと
言おうものなら、専門家とされる人や学者·研究者などからは、「素人の
たわごと」として冷笑をもって迎えられるのが落ちなのだと言う。
 アイヌ語研究で偉大な足跡を残した金田一京助氏やその優れた弟子だった
知里真志保(ましほ)氏の考え方が、その後の研究者たちに大きな影響を
及ぼし、自由な発想の妨げとなり呪縛(じゅばく)ともなっているという点も
あるのではないか。
 確かに、現在のアイヌ語jと日本語の間には、比較言語学で問題とされる
ような、一見して明白な同系性は見出だし得ない。いわゆる「印欧語族」に
属する諸言語の間におけるような単語などの類似性·変化の法則性は存在
しないように見える。
 しかし、二つの言語間の関連性を研究し、検討するにあたって対象となる
語彙や文法現象の現在の表面的差異に捉われて、その内的関係性を見落とし
たり、或いは特定の言語観·文法観に拘泥(こうでい)して品詞などの根本的
機能·性質を見誤るようなことがあってはならないと、そう私は思う。
 言語を地理的平面において把握するだけでなく、その歴史的沿革を視野に
入れて見較べてみたとき、それまで見えていなかった沃野(よくや)が眼前に
展開するなどと言うこことが、或いはあるのかも知れないのだ。
 例えば、古典ギリシャ時代以来、西欧文明の根幹をなす言語観(言語体系
の捉え方)の基本的概念の一つに「品詞区分」の問題がある。
 名詞·動詞·助動詞·形容詞といった語彙の機能の分類は、一定の
バリエーションがあっても、文明や民族の違いを超えて、およそ言語である
限り通有する法則的真理があるとする見解は、今日では否定された筈である
にも関わらず、日本においては、明治以降の学校教育において、言語を教え、
考える上での当然の前提として絶対視され、なお今日にまで引き継がれている
誤謬(ごびゅう)は、決してない少なくないのである。
 しかし、「動詞と形容詞は機能の異なる全く別のものである」といった、
誰の目にも一見して明白な真理と思われるような「命題」にあっても、それは
全ての言語にとっての真理なのではない、一つの大きな誤解であるとまで言える
のである。その誤謬、いや真理の好例がアイヌ語であり、日本語なのである。
 まず、アイヌ語について考えよう。アイヌ語においては、いわゆる「動詞」と
「形容詞」の区別は存在しない。或いは区分する意味がないという見方がある。
以下は、この事を遠慮がちに述べたアイヌ語学の天才、知里真志保氏の説である。
同氏の著書「アイヌ語入門」から、そのごく一部を抜粋した。
…知里 真志保「アイヌ語入門」…
…前記の husko , pirka は、従来形容詞とされ、むぞうさに「古い」「良い」と
訳された。しかし、アイヌ語のいわゆる「形容詞」は、本当は動詞の仲間に入れる
べきである。そして一つの例外もなく、「何々である」という意味と「何々になる」
という意味を持っている。例えば、asir「新しくある(=新しい)」/「新しくなる」
; husko「古くある(=古い)」/「古くなる」pirka「良くある(=良い)」/「良くなる」
;wen「悪くある(=悪い)」/「悪くなる」;poro「大きくある(=大きい)」/「大きくなる」
;pon「小さくある(=小さい)」/「小さくなる」など…   (次回に続く)

by atteruy21 | 2017-07-30 15:40 | Trackback(6) | Comments(0)