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<スペイン語の会話例> 佐藤 邦彦著「ゼロから話せるスペイン語」より
<1場>   オイガ  エス ウステー  セニョール サンチェス
Sadao ⁑ Oiga. ¿Es usted señor Sánchez ? ************あのう、サンチェスさんでいらっしゃいますか?
       ですか あなたは サンチェスさん
     スイー   ヨ   ソイ   エミリオ  サンチェス   キエン  エス  ウステー
Emilio ⁑ Si, Yo  soy  Emilio Sánchez. ¿ Quien  es  usted ? * ええ、エミリオ・サンチェスです。
                                     あなたは、どちら様ですか?
    はい、私は~です エミリオ・サンチェス  誰 である あなたは
     ヨ ソイ  サダーオ カート
Sadao ⁑ Yo soy Sadao Kato.                     * 私は、カトウ・サダオです。
       アア  アデランテ
Emilio ⁑ ¡Ah! Adelante!                       * ああ、どうぞお入り下さい。
<2場>    エステ  エス   サダーオ   カート
Emilio ⁑ Este  es  Sadao  Kato.                  ***こちらはカトウ・サダオ君だ。
    これは ~である
     エンカンタード コーモ セ   ジャーマ  ウステー  セニョリータ
Sadao ⁑ Encantado.  ¿Cómo se llama usted, señorita ? ** **はじめまして、あなたのお名前は? お嬢さん 
          どのように 自身を と呼ぶ あなたは
     メ   ジャーモ  アリスィア トーレス   エンカンターダ
Alicia ⁑ Me  llamo  Alicia Torres.  Encantada.   ** わたし、アリスィア・トーレスと申します。よろしく。
    私を ~と呼ぶ (Yo) me llamo~
( 私は)(私を)~と呼ぶ(←再帰動詞)
    デ ドンデ エス ウステー  セニョ-ル カート
    ¿De donde es usted, señor Kato?                *どちらのご出身ですか、カトウさん?
  ~から どこ ですか あなたは                       (de ~=from ~,out of ~)
     ソイ デ ハポン  ソイ デ トキオ
Sadao ⁑ Soy de Japón. Soy de Tokio.                 *日本から来ました。東京出身です。
     私は ~です 日本  から (Yoが省略されている)
<3場>   セニョリータ   トーレス   ウステー エス
Sadao ⁑ Señorita Torres, usted es ---                * トーレスさん、あなたって・・・
**** オーイエ  サダーオ トゥラータメ   デ トゥー
Alicia ⁑ Oye, Sadao, trátame de tu.                 *ねえサダオ、私をtu(君)で呼んで。
            私を tu で扱え
     ソーモス   コンパニェーロス
     Somos   compañeros.                    * 私たち同僚なんだもの。
   (私たちは)~である 同僚
     デ アクエルド
Sadao ⁑ De acuerdo.                         * 分かりました。
     アリスィア   トゥ  エレス   ムイ   トラバハドーラ
     Alicia,  tu  eres  muy  trabajadora.        **アリスィア、君ってとっても働き者なんだね。
         君は である とても 働き者(女性形)
      ケバ
Alicia ⁑ ¡Que va!                         * まさか、とんでもないわ!

 上記の文で分かるように、スペイン語では用言(動詞・形容詞)が、三項(極)の別と、それぞれの項の格の相違により、
めまぐるしく変化する。動詞ser(~である)は、人称と格、性別、数により規則的な変化を遂げる。変化の一覧は、以下の
とおりである。

〈スペイン語 動詞 ser(セール)の活用一覧〉主格での活用
[1人称主格]------------------------
(単数)         (複数)
 ヨ  ソイ         ノソートロス  ソーモス
 yo   soy~      nosotros somos~
私は ~である      我々(男性)は~である
              ノソートラス  ソーモス
             nosotras somos~
           私たち(女性)は~です
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[2人称主格]-------------------------
(単数)    /     (複数)
 トウ エレス~        ボソートロス ソイス
tu  eres / ******* vosotros  sois
君は~である /     君等(男性)は~である
              ボソートラス ソイス
              vosotras  sois
             君たち(女性)は~である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[3人称主格]-------------------------
(単数)          (複数)
エル  エス           エージョス ソン
el es~  ***       ellas son
彼は~である        彼らは~である
エジャ  エス          エージヤス ソン
ella es   ***       ellas son~
彼女は~である       彼女たちは~である
--------------------------------------------------------------------
    ウステー エス     ウステデス  ソン
(※)usted es ****** ustedes son ~
あなたは~である    あなた方は~である

(※)本来 2人称である筈なのに3人称として振舞う「usted」は、
 敬意を表すべき相手に対して用いる「あなた」である。
この語は、もともと「慈悲」を語源とすると言われ、「慈悲深いお方」
を意味した。旦那様(だんなさま)とでも訳すべきものか。こうした
理由から2人称でなく、3人称として語活用するのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スペイン語 人称代名詞の主格についての活用(変化)を見たが、
目的格についても一瞥(いちべつ)しておこう。


  






by atteruy21 | 2017-08-30 13:32 | Trackback | Comments(0)

 中国語の人称では、やはり第1人称、第2人称:3人称の3項があり、それぞれに
複数形がある。

―――――――――単数形――複数形――――――――
 1人称/わたし/我 wo/ 我们 women(わたし達)
 2人称/君・おまえ/你 ni/ 你们 nimen (君たち)
      あなた/您 nin/您们 ninmen ・ ※二位 erwei
 3人称/ 彼/他 ta/他们 tamen(彼ら)
 彼女/她 ta/她们 tamen(彼女たち)
 それ・その他/它 ta/它们 tamen(それら)
―――――――――――――――――――――――――
※〈第2人称 您(ニン)は敬語 您们 は文語 二位は口語〉

 中国語における第3人称「他」・「她」・「它」は、すべてta(ター)と全く同じに発音される。
文字のなかった古い時代には、これら三者は区別のない一語だったことが窺(うかが)われる。
 これは人称の発生・発展の論理的道筋(我→汝→その他)に沿った語の成り立ちと沿革を示す

痕跡(こんせき)と見てよいであろう。
 なお、中国語においては、「人称」は他の言語と比べ純化・単純化の方向で進化を重ね、格や
その他の要因に伴う変化を知らない特異な様相を呈するに至っている。
 その特異な様相というのは、「格」などによる語形の変化が、消失へと向かう方向で進化したと

思われることである。
 世界の言語の大半は、「人称」とともに「格」(主格・目的格等)が機能し事象の存在の態様や
人間の行為の主・客等の関係を明示する。しかし、中国語においては、人称語(代名詞)は、その
人称のものが主語に立つ場合でも、行為の対象になる目的語の立場となる場合でも、常に変わらぬ
一語である。
 我 wo は、「私は…」でも、「私を…」でも、「私に…」でも、全て我(wo)一語で全く語形の
変化を伴わずに対応し、格助詞(「~は」「~を」など)も伴わない。
 つまり、中国語においては人称(我・你・他)に格(主格・目的格等の区別)は存在しないので
ある。
 例えば、我 爱 你(ウオ・アイ・ニイ)=「われは君を愛す・君が好きだよ」の「我」は、主格の

「私は」で、「你」は目的格「君を」を表すことなる。逆に、你 爱 我 (ニイ・アイ・ウォオ)と

なると、你(君)が主語で、我(ウォオ)は目的格となって、「僕を」を意味する。主語であるか、

目的語であるかは、語の置かれる順序によって明確に決まり、順序が交代することは決してない。

勝手に語順を変えると、意味が反対になったり、意味が不明になったりするのがオチである。
 語順は多くの場合、主語+動詞+目的語であり、英文法で言うS(主語)+Ⅴ(動詞)+ O (目的語)に

基本的に一致する。
 中国語がどういう理由で人称に格が存在しないような単純化が成されたのかは明らかではない。
しかし、漢文化が東アジアで大きな勢力、圧倒的な影響力を持つに至る過程で、多くの民族(文化)を

繋(つな)ぐ国際スタンダードとして、漢語、漢字が成立し、やむにやまれぬ必要から、文法等の

単純化が起こったのではないだろうか。
 実際、東アジアの多くの民族が漢字を介在させて他の民族との意思疎通(そつう)を図っていた
ことはよく知られている。「漢字を介在させて」というのは、「漢文を使って」ということでは
ない。漢字で書かれた文章でもその語順や読み方はそれぞれの民族の独自・特有の仕方でされた
ものなのである。
 我 愛 爾(ウオ・アイ・アア)、爾(アア)は 你の古語汝(なんぢ)である。日本人はこの文を読む

時は、語順をひっくり返して日本語風に読む方法(返り点など)を編み出したり、漢語を大和言葉に
置き替えたりして、四苦八苦して文を読もうとしたのである。
「我(われ)は、爾(なんぢ)を、愛(いとし)む」などとしたのである。
 なお、この日本人の漢文読み解き文では漢文の文法の純化の道筋は見えて来ないが、中国を取り
巻く東アジアの周辺民族にとっては、語彙(ごい)も文法も似通(にかよ)った言語であり、
中国語との化学変化が起こり易い土壌があったのである。
 語形のわずかな違い、文法の差異を解消して、一つの、より力強い、誰にも理解のしやすい言語・
文字が必要だったのである。
 中国語の文法の単純化が何故起こったのかの証明は暫く措(お)くとして、その対極に位置する

華やかな人称変化を示す言語に目をやりたいと思う。
 人称変化の王者といえば、印欧語群の言語であり、なかでもスペイン語は奇蹟の七色の変化を誇る
言葉である。その一端をまず垣間見てみよう。(次回につづく)



by atteruy21 | 2017-08-19 16:20 | Trackback(25) | Comments(0)

 印欧語群に属する言語の人称の意義と役割は後に検討するが、前もって
一言で言えば、それは人格の三極(項)対立を通じての事物の認識のための
定型(パターン)としての役割である。これに対し日本語では、「人称」に
代わる役割を持つのが「位相」による認識パターンである「日本語型人称」
と呼ぶべき語法なのである。日本語型人称においては、話題の中に出て来る
人格や事物が誰なのか、何なのか、私がしているのかあなたがしているのか
或いは他の誰かがしているのかを特定することを必ずしも問題としない。
 話題の中で、二つ或いは三つの存在の間の関係性(強弱、高低、優劣)が
相対的に示されるだけで、例えば、事物や行為の主客がいずれであるかを
人格別に弁別することに、さして関心を示さないのである。
 印欧語式の絶対的人格対立的関係観でなく、相対的並立関係観に立つのが
「日本語型人称」の特質である。
 平安期の古典文学に「私が…」とか「あなたは…」とか「彼を…」などの
物言いが登場せずに、この登場人物相互の間の関係を暗示して人称代名詞に
よらずに誰の行為かなどが知れるのは、この日本語型人称のなせる業であり、
優れた点である。
日本語型人称の説明で、いま話題中の人格が誰であるのかを人格の3極対立の
中で特定することを日本語は必ずしも問題としないと述べた。普通の文法観
からは、信じがたいと思う人も多いと思うので、人格対立の人間関係観では
充分に説明できない、そういう日本語の文を一つ例示しよう。
〈例文〉「ひとがせっかく教えてやろうと思ったのに、人の話を聞こうとも
しないで!」
 ここに登場する「ひと」は、「私が」の意味である。ここでの人間関係は
相対的であり、固定的·絶対的なものではない。優位者としての「私」が、
代名詞なしに特定されている。
 さて、「日本語型人称」を解明する前に、改めて一般的に言う「人称」とは
何かということを確認しておく必要があるだろう。
 先に述べたように、「人称」とは、人間を取り巻く環境(世界)の構造と、
それを認識する主体の関わり方を示す型(パターン)であり、認識に至る方法の
基礎的単位のことである。
 人は自己の周囲の世界を見るにあたり、まず認識(意識)の主体である自己
(自我)と自己以外の対立に目を向ける。次に自己以外の世界(人間や事物)を
汝(話し相手である「お前」)とその他のもの(彼·彼女·それ)という三項に
分割する。
 世界に働きかけ、或いは世界を認識(記述)する基礎構造(単位)が、三項に
大別された人称(人格極)であり、その相互の関係なのである。
 人称を考えるにあたって、ここでは、主に印欧語と、日本語及びアイヌ語を
比較する方法を採るが、人称の三分法を理解する上で分かり易さがあることから、
中国語(漢語)に注目しこれについて少しだけ触れてみたい。 (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-08-15 19:22 | Trackback(50) | Comments(0)

 ついでに言えば、一つの言葉(語彙=ごい)が動詞としての要素を持ちつつ、
併せて形容詞としても振舞うという性質·機能は、日本語にも見られる点で
あるということも注目に値する。一例として、「有る」と「無い」が挙げら
れる。反対語、対語として辞書に載っているが、それぞれの品詞は何か。
 岩波国語辞典によれば、「有る」は動詞で「無い」は形容詞とされている。
反対語、対語が、全く別の品詞『範疇(はんちゅう)』の中で語られるという
のも論理的には一貫性、体系性に欠けると言わざるを得ないのだが、世界の
言語の多様性というものを考えれば、全くあり得ない話とも言えまい。
 小学生の頃に、動詞と形容詞の見分け方を教わった。動詞は「う」の段で
終わり、形容詞は「い」段で終ると憶えたことがある。確かに「ある」は
「う」段だし、「ない」は「い」段で終わる。やはりこの辞書の言っている
ことは正しいのか。
 だが、時間を少し遡れば、「有る」は昔、「あり」だったのであり、
「ない」の方は「なし」であった訳(わけ)だが、この「あり」は、果たして
動詞なのか形容詞なのか。一例として、「日本男児ここにあり」等の言い方が、
昭和20年以前に好んで使われた流行語だったそうで、ここでいう言い切り型の
「あり」は、果たして動詞なのか、形容詞なのか。
 時間の縦の軸から目を転じて、空間(水平)の横の軸を眺めてみると、方言に
注意を引くものがある。標準語で「痛い!」というべきところを、九州の一部の
地方では「痛か!」と言う。これは「痛くある」ということの縮言なのだが、
アイヌ語の発想と共通のものを感じさせないだろうか。
 ちなみに、アイヌ語ではarka「痛くある(=痛い)」/「痛む」となり、アイヌ語
研究者の中川裕氏のアイヌ語辞典では、arka〔動1〕痛い、痛むとなっている。
 このように、「文法上、動詞と形容詞は全く別の品詞であり、異なる機能を
持つものである」という、常識的には一見明白に正しいと見える見解が、全ての
言語に当てはまる真理ではなく、重大な誤りに導く危険さえ孕む(はらむ)もので
あるということに注意を払う必要があると強調しておかなければならない。
 一見して真理と見える命題で、大いなる危険を孕むもう一つの問題は、人称の
問題である。
…人称は世界共通の文の構成要素か…。
 中学生になって初めて英語を習ったとき、I,my,me、you,your,you、he,his,
him、she,her,her…などの人称代名詞の変化を憶えるのに苦労した人は少なく
ないだろう。
 英語では、さほどのことはないのだが、他の「印欧語」、例えば、スペイン語
では、主語の人称の別に伴って、動詞·形容詞の活用形が目まぐるしく変化する
のだという。私の場合、英語を習い初めた中学生のとき、人称代名詞の he や
she に対して、日本語にはしっくりと来る訳語がなく、何となく違和感があった
ことを憶えている。
 思い出してみると、私の子どもだった頃は、大人たちに会話に「彼は…」とか
「彼女の…」などという言い方は、全くされていなかったように思う。戦後の
中学校の英語教育の中で、三人称の訳語として、これらの語が使われて若年層に
広がって行くうち、徐々にその親世代にあたる大人たちの会話にも登場するように
なって行ったのではないか。
 戦前あるいは戦後間もない頃までは、普通の大人たちにとっては、英語の he や
she にあたる専用の、一語での呼称はなく、もし、これをあえて言おうとすれば、
「あの方(かた)は…」とか、「その女(ひと)に…」などと、二次的な複合語で表現
するしか方法はなかったのである。
 もちろん明治以降、著名な小説家などが作品の中で彼、彼女を代名詞として使う
ことはあったが、それは作品世界の中の、西洋文明の影響下の鹿鳴館的言葉遣いに
過ぎないものであって、一般庶民の会話には絶対に登場しないものであった。
 「彼」や「彼女」に限らず、そもそも日本語においては「われ」「なれ」などの
人称代名詞が述語(動詞·形容詞等)に伴って姿をあらわすことは滅多にない。
 行為や話題の主(ぬし)が誰であり、その対象が何であり、誰であるのかは、印欧
諸語のように人称代名詞(I,you,heなど)を用いて表示されることは稀(まれ)であり、
特定の接辞(せつじ)「ar」「as」など(後述)を述語の語尾に付加することで話題に
関係する人格や事物の間の力の優劣や位置の高低が示される。それにより、誰が誰に
という位相(いそう)が特定され、結果として(人格)人称が表示されたのと同様の効果が
もたらされるのである…次回に続く。

by atteruy21 | 2017-08-05 15:08 | Trackback | Comments(0)