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...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった❓...その21

 格助詞「~を(=wo )」の核を成す語意を追究するため、動詞「居る(をる)」に注目し、「低い、弱い立場にある」という状況や
「低い位置に付く」という方向性を意味するという語感を得た。また、「招(を)ぐ」という語彙を取り上げ、これに「差し招く・
誘う」という意味があることを確認した。ただ、「誘う」の方は、「~を」という語の原意を探る、そこに繋がる径(こみち)から
少し逸(そ)れた、横路に紛れ込んでのお遊びのようなものになってしまった。そこで、格助詞「~を」に続く本道の探索に立ち
戻ろう。本道と言っても、それは広い平坦な道ではなく、恐らくは途切れ途切れた細い荒れ果てた小道に違いない。
 「をろがむ」という語彙がある。漢字にすれば「拝む」となる。「何だ!拝む(おがむ)じゃないか!」と思うかもしれない。
その通り、「をろがむ」は拝むの古語である。同時並行して「拝む(をがむ)」も使われてはいたのだが、「をがむ」よりも語の発生の手順と意味が分かりやすいという理由で、ここで取り上げるのである。
 古語辞典(旺文社・全訳古語辞典)によれば、以下の通り。
...をろがむ【拝む】(自マ四)[上代語]おがむ。礼拝する。 例文 〈紀〉推古
 原文:「畏(かしこ)みて仕(つか)へまつらむ、『をろがみ』て仕へまつらむ」
 訳文:「おそれ慎んでお仕え申し上げよう、『身をかがめて』お仕え申し上げよう」
『を・ろ・がむ』を『身を屈(かが)める』と訳している。この語を分析してみると、恐らくは「 wo (低い) ro(又はoro =所)
gamu (屈む)」になると思われる。「 wo(を)」は、やはり低い位置、弱い力を表しているようだ。この「拝む(をろがむ)」と
ほぼ同義で、語の焦点が少し異なる「崇(あが)む=あがめる」という語がある。「尊敬する、崇拝する、大切にする」などを意味する。「をろがむ」と異なり、「あがむ」の方は、身を自ら屈することなく、逆に自ら上方を仰いで、高みに身を伸ばすような、積極果敢、力感のある情況を表す語意を含むようである。同じく「拝む」という行為の、その主体の構えや姿勢で、発語の意味の方向が全く異なるのである。
 格助詞「~を」の本質的、中核的語義に、少しは近づくことが出来ただろうか。

もう一度、強調しよう。「を」の核となる語義は、低い位置へ身を沈めること、「あ」は、逆に、自らを下から上へ押し上げる、伸び上がることである。やはり、「ある」と「をる」の対立に収斂(しゅうれん)して行くものか。
 (次回につづく)
 10月29日には1日で百人を越える人がブログを覗いてくれましたが、やっぱりどなたからもコメントが頂けませんでした。
質問でも、ご意見でも、お叱りでも結構です。どなたか、私に声をかけて下さい。

by atteruy21 | 2017-10-31 19:24 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その20

 「を」の基本語意について、いま暫く古語を追究してみよう。「招ぐ(をぐ)」という言葉があって、「招く(をく)」とも
発音されるのだが、漢字を見て分かるように「招(まね)く」という意味である。
「をぐ(=をく)」は、関連し発展した形の語をとして名詞「荻(をぎ)」や合成名詞の「招き人(をぎびと・をきびと)」などを
持つ。では、古語辞典で【招き人】の解説文を読んでみよう。出所は同じく旺文社版「全訳古語辞典」である。

 ...をき・びと【招き人】(名)「をぎびと」とも。加持祈祷をして物の怪(もののけ)を招き寄せる験者(げんざ)。とある。
「を・ぐ」が、恐らくは古形なのだろうと私は思っている。それは「をぐ」の形が「荻(をぎ)」という語に、より直接的に結び
付いている、より語源に近い、語源を暗示(と言うより明示と言っても良いか)する形だからである。

「荻」という語彙は、尾花(をばな=ススキ)などと共に水辺・湿地に生える、銀白色の穂をつける草の総称・一般名称であって、
特定の種(しゅ)の草木の名称ではない。
 秋の風に揺れる芒(ススキ)の原をイメージしていただきたい。ススキの穂(ほ=ho)が、ちょうど人を誘(いざな)い、差し招く
手のように思えないだろうか。日本列島の住人は太古の昔から、この差し招く手を見て、「をぎ=差し招くもの」を連想したので
ある。この語「wo-g-i」の形成の秘密については、別に改めて検討したいと考えている。ただ、語の末尾の「 i 」に関しては、
古い和語には、アイヌ語と同様、名詞化機能を持った接尾語の「 i 」が有り、それを語尾に付けて「~するもの」、ないしは「~する人」を表し、また更に、「~すること」という意味にまで拡張発展させた語法が有ったことだけは、取り敢えず指摘して
置きたい。
 この「招(を)ぐ」は、単に「人を招く」というよりは、「招ぎ人」の例にあるように、霊魂を招き、呼び寄せるという宗教的意味合いをこの語は持ち、神秘的語感を古代の人々に強く意識させていたようなのである。敢えて想像を膨らませれば、夕暮れの
銀白色に耀くススキの穂に、異界を感じ取っていた古代人の息吹き(いぶき)、その世界観までが浮かんでくるような気がする。
 夕暮れの原の風にそよぐ、ススキの穂が「をぐ(招ぐ)」姿は、何となく寂しげで、その手で異界に引き込まれそうな、おぞましさを感じるのは私だけの錯覚なのだろうか。
 いずれにせよ、「を(=wo )」は、人を、魂を誘う(いざなう)」という語意を持っているようである。

 (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-30 12:13 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その19

 アイヌ語でも日本語でも、「尻」は「オ」と言う。ここで「チョッと待ったア!」と手を挙げる方は、正しい批判精神の持ち主である。「を」と言う字は、本来「WO =ウオ」と発音されるべきものである。現代語では「オ」と区別されずに発音されるものの
旧(ふる)くは「ウオ」と発音されていたのである。たまたま現代の発音で「オ」と聞こえるからと、無造作に結びつけると大きな
誤りを犯すことになるのである。こういうのを「こじつけ」とか牽強付会(けんきょうふかい)と言うのだが、こうならないように物事を考える際には、常に注意していなければならない。特に私のような素人にとっては...。
 そこで、この格助詞「~を」の「 を= WO 」という音に着眼して、イキナリ動詞の「尻を突きだす」に結びつけるような冒険や無鉄砲はやめて、関連する(と思われる)語句を一つひとつ点検しながら、遠くに霞む真実に向かって歩を進めようと思う。
 そのためには、見知らぬ言葉で溢れるアイヌ語の深い森をさ迷うよりも、少しは見識った日本語の狭い古道を探しだして、霞の
奥に潜む真実に迫りたいと思う。なぜなら、繰り返し思い返し言うように、アイヌ語と日本語は、その基底で太い血管で繋がった
兄弟の言葉だと私は思うからである。いま、姿形は違って見えても...。
 古い時代の日本語の世界を探検しよう! 
古語「あり=有り」に対し、「をり=居り」という言葉がある。旺文社の「全訳古語辞典」の解説に、「をり」の語義が理解し易い
形で例文が載っているので、その現代誤訳を併せて引用、紹介しよう。少々長くなるが、お付き合い願いたい。
...【居り】(自ラ変)①存在する。いる。ある。  例文 方丈記
原文 「もし、貧しくして、富める家の隣に『をる』ものは、朝夕すぼき姿を恥じて、へつらひつつ出(い)で入る」
訳文 「かりに、貧乏で、金持ちである家の隣に住んでいる者は、朝に夕に(自分の)みすぼらしい姿を恥ずかしく思って、
   (隣家の人に)追従しいしい(自分の家に)出入りする(ようになる)。」
 ご覧のように、直接言及しないものの、隣家の金持ちに対して、此の家の者は低い位置にあり、弱い立場であることが分かる。
「をる(居る)」は、このように、「勢いを得て取って替わってここにある」という意味の「ある」とは違って、力の弱い、従属的な立場の者の行為なり、状態を記述するもののようである。もう一つ例を挙げれば、
...「黙ってそこに居(を)れ!」とか「旦那様のお情けで、ここに住まわせて頂いて居(を)ります。」などと、高い立場の者が低い立場の者に言い、或いは逆に、力の弱い者がオズオズと力ある者に申し上げるような状況で用いられる。
 お気付きのように、「を」は、大きな概念として、「低い位置にある・下に付く」という情況を表すもののようである。

 (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-28 11:18 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その18

 マウント行為(マウンティング)という言葉をご存じだろうか。サルの社会で、謂わば儀礼的に行われる疑似(ぎじ)的性行為で、
社会の緊張関係を和らげる、社会の安定化システムの役割を果たす社会的行為の事である。
 マウンティングは、群の中で順位をめぐる争いが起きた時、或いは起きそうなとき、主にオス同士の間で見られる性交を真似た
行動で、優位に立ち勝者となったオスが、劣位のオスの尻の上に跨(また)がる行為を言う。優位者がオスを演じ、劣位者がメスを演じる訳だが、強者が誰であるかを自他共にハッキリと視覚的に示す、猿にとっては極めて分かりやすい示威(しい)行動になる。
 これは例えば、牝(メス)を巡って牡(オス)同士の争いになった時、最後まで争ってどちらかが死ぬまで争うという事態を避け、サル社会を防衛し、群の安定化をもたらすという重要な意味があるのである。
 実際には、多くの場合、争いになりそうなとき、劣位の牡猿は観念して、優位の猿の前へ行き、相手に尻を向けて、それを突き出す仕草をする。それを見て優位の猿は満足して、突きだされた尻に跨がって決着となる訳である。実際に実力を行使して勝者が
尻に跨がることも少なくはないという。
 稀に、若いメスが、群のボスなどに尻を突きだす行為をすることもあると言う。一種の挨拶(あいさつ)行為と考えられている。
これによって畏敬の念を示すものらしいのである。こうした場合、プレゼンティングを受けたボス猿は、その敬意を軽く受けて、
実際にはマウント行為は行わず、少女猿の尻に軽くポンと触れて挨拶に応えるものらしい。こうしてサルの社会で行われる一連の
行為を観察すると、それが社会の安定化を意図した社会的儀礼に発展して行く、その道筋が見えて来ると私は思うのである。
 東アジアでは、今でもこの尻を突きだす行為が続けられている。その動作の元々の意味が忘れ去られたために、今では尻を突きだす方向を逆向きにして行われている。それが「御辞儀(おじぎ)」である。
 もうお分かりだろう。劣位に立ち、目的格に立つことを示すジェスチュアとは、この、相手に向かって尻を突き出す行為なのである。お辞儀の方向が本来の姿から逆向きに変わったものである事は、日本の時代劇を見れば知られる。いま、戦国時代の武将が
戦(いくさ)に敗れ、或いは戦に勝てそうもないと観念して、相手の陣営に降(くだ)ったとしよう。降伏した武士は、勝者の陣営に
赴いて、勝者の頭領が姿を表す前に、勝者将軍の座る床机(しょうぎ)の手前にひれ伏して、高く尻を突き立てて、後方から現れる
将軍の到着を待つ。勝者将軍は床机に向かう途中で、ひれ伏した敗者の尻をポンと軽く叩いて、そして着席するのである。
 勿論これは、勝った側が敗者の降伏を受け入れる場合の話である。この降伏の儀式に限らず、武士の社会では、劣位者はつねに
優位者に対してはこの姿勢を強要されることになる。
 劣位を示し、行為の対象となる者を示す日本語の格助詞「~を」は、この「尻を突きだす」行為のジェスチュアから導き出されるものなのである。尻は、アイヌ語で「 (h)o お 」、日本語でも「尾(を)=wo 」という。  (詳細は次回に)

by atteruy21 | 2017-10-27 11:51 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その17

 以前、かなり前の話だが、「拳(こぶし)を握って立つ女」というアメリカ映画を見た。主人公は「開拓時代」の西部で、戦乱の中で両親を失い、先住民インディアンの手で育てられるという、数奇な運命を生きた白人の女性である。虐(しいた)げられた少女
時代にあっても、不当、理不尽(りふじん=道理を尽くさないこと)な仕打ちには断固として抵抗した、健気な女の子だったことが
描かれていた。
 実話を基(もと)にした物語のようだ。題名の「拳を握って立つ女」は、主人公の女性に成人後に付けられたインディアン名で
「理不尽に対し、激しく、誇り高く立ち上がり闘った女(ひと)」という意味のようである。この、先住民(インディアン)の命名の
仕方、子の名付け方は、アイヌ民族の名付けとほぼ同一の仕方で行われる。まだ赤ん坊の頃は、悪魔に魅入(みい)られて魔界へ
連れ去られる(赤ん坊が死ぬ)事のないよう、敢えて取るに足らない、或いは、普通には忌み嫌われるような仮名(かりな=例えば
「ウンコの付いた」というような)を付けておいて、立派にもう大丈夫なまでに育ってくれれば、後で、育った子どもの性格や、
印象に残ったその人の行為や事件に因(ちな)んで、相応しい名を付ける訳である。古代の人々にとっては、子どもと言うものは、
魔に魅入られやすいものだったのである。少し横道に逸れ過ぎた。本題に戻ろう。

 「an 」や「as 」の、その立体的イメージは、この「拳を握って(堂々と)立つ」という姿なのである。
「an 」や「as 」の動詞としての意味については、以前に詳しく述べたところだが、改めて再説しよう。それは、「力を増して、
何者かに取って替わり、今ここにある(=an )」であり、或いは「何者にも制約されず、自分の脚(あし)で、堂々と(スックと)立つ
(=as )」がその原意である。
 アイヌ語(その先行語である「縄文語❓」を含め)の先人たちは、恐らくは、この拳を固めてスックと立つポーズを相手に対して
示しながら、眼前にある事態を主導する者、主体を成す者、=主語の所在を明らかにし、述語(「行く」・「殺す」などの言葉)を
発声・発語したのではないだろうか。
 この方法を用いれば、指差し行為で人格極(俺・お前)を特定することと相俟(ま)って、指差しの順序に拘束されずに、後置された場合であっても、誰が、何が主人公(主語)であるのかを特定することが出来る訳である。
 次回では、目的語を表すジェスチュアについて述べることになるが、それには日本語にも登場を願うことになる。というよりも
日本語無しには、この問題の真実に迫ることは出来ないのである。どういう展開になるのか、「乞う、ご期待!」である。

   (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-26 11:38 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その16
 後置主語と、ごく普通に述語の前に付く主語(前置主語)の関係を考えて頂くため、次の二文を見較べて頂きたい。
 「パナンペが水浴すると褌が流れた」より
  konoyaro,tan Penanpe ne awan teeta ne-yakka
  この野郎、このペナンペであった 先日も
  i=kosunke wa a=kor icen eykka awan-pe.Tane e=rayke=an kusu-ne na,...
  我々を欺して 銭を盗んだのは。    今、殺してやるぞ...
 「鯨婆さん、虱(しらみ)をとりましょう」から
   ci=nuwenpe-somo-ne awa e=hawe-an kusu , a=e=rayke kusu-ne na ,
  聾の私でもないのに そんな事を言いやがって  殺してくれる
 ご覧のように「お前を殺してやる」という同一の語句を、主語を頭に戴(いただ)いた形にしても、尻尾(しっぽ)に後置しても
いずれの言い方も可能である。恐らくは「...=an 」と後置する方が古い語法で、「 a=...」という形は、あとで発生した新しい
語法なのだと思われる。従って、後置主語を用いると、いささか古風な、文語的な響きがあり、前置主語の方は、より現代的な、
口語的口調に聞こえるもののようである。
 主語の前置、後置は、それぞれ地方により方言の差異として現れており、それは、その地方の歴史的沿革や人々の移動の結果として、そういう方言の分布状況になったのではないかと私は考えている。
 さて、ジェスチュアと語順の関係の問題に戻ろう。この「アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別が...」の文の第一回で
「kamuy aynu rayke.」という文を取り上げて、この文は、「熊が人間を殺した」とも、「人間が熊を殺した」とも、どちらとも取れるし、それでなんら差し支え無いのだと述べた。さぞビックリして頸を捻った方も多かったろう。実は、この曖昧さは、古いジェスチュア併用語法の名残りなのである。接辞「...=an 」などを編み出す事により、この曖昧さを克服したのが、今のアイヌ語なのであると、そのあとの文で述べたことを憶えておられると思う。
 そこで、何らかの主導性を表すジェスチュアが、どんな風に接辞「...=an 」や「...=as 」に形象化されて行ったのか、考察を
進めて行きたい。動作の順序は、必ずしも主語と目的語の関係を決めるものではないということは、後置主語の存在の事実一つで
明らかだろう。アイヌ語の先人たちが、どのようなジェスチュアをして様々な行為や事態の主人であることを表そうとしたのかを
考えて見よう。手懸かり、ヒントは、当然のことながら現代のアイヌ語の中に残っている。もう、お分かりだろう。それは、接辞
それ自体の重要な構成部分である「an 」であり、「as 」である。動詞an やas の意味、性質についての私の考えを覚えておいで
だろうか。一言で言えば、それは「堂々と立つ」姿である。    (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-25 11:50 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その15

 動作と発語の手順が、基本的に、言語の主語と目的語の語順(位置関係)に一致すると述べた。これは真理である。だが、誤解を
避けるため、強調して置かなければならない事が一つある。それは、「主語→述語(動詞等)→目的語」という語順、英文で言えば
「 S → V → O 」で表される語順は、英語や中国語には当てはまるが、全ての言語が、いま例示した動作と発語の手順に一致
する訳ではないという事である。
 世界の言語の大半は、この「S→V→O」の語順に従うのだが、少数であれ、世界には、述語のあとに主語が後置されるという
文法を持つ言語が有るのである。何と、わがアイヌ語がその一つであり、実は、日本語もその稀少な種(しゅ)の言語に該(あ)たる
のである。
 「arpa=an.」という語句がある。辞書などでは「物語や引用文の中で」という条件が付けられるのだが、これで「我は行く」を
意味するのである。女性が成人男性に向かってこう言う場合は、特殊で、主語の人称が変わり、「(あなたが)行く=行かれる」を
意味し、敬意を示す意味合いになる。
 ここで「人称接辞」の曖昧さや融通無碍(ゆうづうむげ)の性質について再論し、いまさら云々(うんぬん)するつもりはない。
ご覧の通り、見事に「行く・我は」という構成(=後置主語)になっているではないか。では、他動詞の方はどうだろうか。
知里真志保・アイヌ民譚集の「パナンペが水浴すると褌が流れた」の中では、こう叙述されている。
 Oni utar sonno iruska wa,‘’konoyaro,tan Penanpe ne awan teeta neyakka i=kosunke wa a=kor icen eykka awan-pe,
 鬼たちは本当に怒って、「コノヤロ、このペナンペであったか、先だっても我らを騙して金を掠(かす)め取った奴(やつ)は、
tane e=rayke=an kusu ne na,‘’ari hawokay kor...
 いま 殺して 呉れよう ぞ 」と言いながら...
この‘’e=rayke=an kusune‘’も一般的には「お前を我は殺すぞ」と訳されるように、主語(我は)が述語動詞のあとに置かれて
いるのが分かる。実は、「お前を我は殺す」という訳は、前にも述べたように、正確ではないのだが、後置主語の説明の便宜上、
今は触れないことにしよう。
 日本語も後置主語が成立しうる言語だというと、常識的文法観から言って到底あり得ない話に見えるのだが、日本語の場合は
主語や目的語を表示する役割を担う格助詞(いわゆる「て・に・を・は」)を介在して、後置主語が成立しうるのである。先程の
アイヌ語例文になぞらえれば、「お前(を)・殺す・俺(は)」という語順になる。こういう言い方は、今は一般的ではないものの、
意味は立派に通じるのである。実はこの言い方は、古い時代には行われていたと考えることも出来るのである。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-24 13:05 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その14

 主語や目的語の表示を、音声の発声によるだけでなく、素振(そぶ)りとの合成によって行う時期を経るものだということは、
恐らくは、世界の言語に共通して見られる、言語の形成過程の一道程なのだろう。歴史的、沿革的に、三人称(彼、彼女、それ)を持たないアイヌ語や日本語にとっては、三人称の代名詞を持たないという、言語それ自体の性質上、この指差し行為を抜きには、「彼が~する」という主旨を、対話の相手に示すことは極めて困難なことだろう。
 前回は、「~が行く」という自動詞を例にとり、指差し行為による統語法を説明した。勿論、全ての言語が必ずしもこの道程を経るというものとは限らない。しかし、言語というものの発生と発展を考える上での、最も重要な指標の一つがここにあるということは、紛れることのない事実である。
 さて、自動詞だけでは、世界は語れないものである。次に目的語を含む他動詞の構文についても、表現全体がどのような様相を
呈するのか、考えて見よう。
 指差し行為は、ここでも有効な手法になるだろう。やはり例をとって説明しよう。同じく漢語で、少し物騒だが、分かりやすさ優先で、「打つ・殴る」を取り上げよう。
 恐らくは、先ず自分を指してから、徐に(おもむろに)口で「打(ダー)」と発音しながら、次いでその指先を相手の方に、或いは
中空に向けて指す。これで「俺は・打つ・お前を(やつを)」=「お前を(あの野郎)ぶん殴ってやる」ということになる。
 この動作と発語の手順に充分な注意を払って頂きたい。漢語における語順は、印欧語でも共通のようだが、この動作と発語の
順序に従っているのである。それは英語などに言う S (主語) + V (動詞) + O (目的語)の構文である。
 
 しかし、この語法は致命的な欠点・欠陥を抱えている。直接に対面し対話(喧嘩している場合を含む)しているのであれば、この語法は有効であるが、人づてにこう言うことや、文書によってこのジェスチュアを示すことはできない。主語や目的語はこうした事情から、徐々に人称代名詞の使用と併用されて行く。やがて、ジェスチュア併用語法は廃れ、人称代名詞のみが主語と目的語を表示する役割を担うことになって行くこととなるのである。
 
 (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-23 20:49 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その13

 主語の有無とか、主語と目的語の対立の曖昧さについて考えてきた。主語と言い、目的語と言っても、結局は、その役割を担う
人格的三極「I、you、he など」が誰であり、何であるのかに大きく関わるものなのだということを、改めて強調して置きたい。
 そこで思い出して頂きたいことがある。日本語の祖先となった古代語には、人称(人格極)が元々は無く、人称を持つ言語・文化
(例えば漢語)の影響下に人称の考え方や語法を受容し、摂取して来たのではないか、ということである。そして、人称の考え方を
摂取するに当たり、民族の旧来の、固有の「位置概念」を核にして新しい概念を創出したのだと述べたところである。
 ところで、その時には説明しなかったのだが、漢語の人格極、例えば爾(なんじ)、他(彼・彼女など)は、実は、それ自体が元々
古くは位置や場所を表す語彙だったのである。
 爾(なんじ=er・アル )は、古くは「近い」を基本的な、核となる語意としており、他(彼 =ta ・ター)は、「他の・外の・別の
場所」を意味していたのである。

 この事が一つのヒントを与えてくれる。それは、漢語に於いても、古くは人称(人格極)が無くて、動詞や形容詞などの述語が、裸で、人称の衣を纏(まと)わずに語られていた可能性があるという事である。分かりにくい考え方なので、具体例で説明しよう。
 例えば、行く「去 =qu (チュイ)」という語がある。発話者は、「お前が行く」という場合は、相手の方を指差しつつ、ただ、
「去(チュイ)」と言う。「私が行く」と言いたい時は、自分の胸の辺りを押さえるか指差したりしながら、やはり、ただ「去」と
言うのだ。では、「彼(彼女)が行く」は何と言い、どんなジェスチュアをするのか。それは、発話者と聞き手の間の視線の範囲の外側、別の方向、恐らくは斜め横あたりを指して、やはり一言、「去(チュイ)」と言えば良い訳である。
 語の現在の形の裏側に隠された、過去の姿の痕跡を探り、そこから推察して、このように往時の会話の様子を復元、再構築することは、あながち論理の飛躍とかこじつけと非難することはできないのではないだろうか。
 では、他動詞の場合はどうだろうか。当然、主語や目的語などの対立関係が発話の態様に反映される筈である。言葉での対応に
なるのか、ボディランゲッジがものを言うのか。
 世界の言語の在り方の多様性は、一般人の常識を大きく超えることが稀ではない。どんな展開が用意されているのか、「乞う 
ご期待 !」である。

  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-23 11:46 | Trackback | Comments(0)

...アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別がなかった?...その12


 三回前の(その9)で、アイヌ語の抱合現象を説明し、完全動詞【0(ゼロ)項動詞】とされる「sir-pirka =(良く晴れる)」について述べた。その際に傍証として英語やドイツ語などに見られる、主に天候などについて述べる時に用いられる「形式主語」の
「It rains.=(雨が降る)」とか「Es schneit. =(雪が降る)」といった句の存在を紹介した。その時はサラリと流して、詳しい説明はしなかったのだが、実は、国と民族の違いを超えて共通に存在する、文法上の重大問題、言語の形成過程に関する秘密が、ここに隠されているのである。
 英語や独語の It や Es が、形式主語と呼ばれる所以(ゆえん=わけ・理由)は、それらが元々は文中に存在しなかったもので、
後世の人が、「主語の無い文章」の説明に困り果て、あとで便宜的に付け加えたものだからである。
 これら印欧語の祖語には、主語の無い、述語のみで語る語法が有ったと推定されている。また、このことは天候に関する言葉にとどまらず、行為や状況を表す、かなり広範囲な語句に及んでいたと考える学者も、皆無という訳ではない。
「It rains.」を「雨が・降る」と二語で訳した。しかし、「It」は「雨」を表しているのではない。「It 」は、基本的に意味を持たない。元々無かったものだからである。この文章には主語が無いのだ。この文を「雨が降る」と訳せるのは、「rains 」の
一語で「雨(が)降る」を表しているからである。
 実際には、そう会話で言う人は少ないのだが、「雨が・降る」を二語の英語で、雨を主語にして、Rain falls (雨が・降る)と言うことができる。ただ、一般的には、この二語での表現は、天候について話題にすると言うよりは、雨で着衣が濡れるといった
意識に主眼が置かれるような場合に用いられるようである。形式主語を用いた「It rains.」の表現は、伝統的価値観に立つ英国紳士にとっては、「 Rain falls .」よりも、懐(なつ)かしい、詩的表現に聞こえるようなのである。
 中国語では、「雨が降る」は「下雨(シャア・ユイウ)」と言う。文法上、このような文の形式を存現文(そんげんぶん)と言い、
文の語順が一般的な文章とは異なって、ご覧のように、「雨」は主語に立たない。「下雨」で一語の動詞であり、一種の抱合が
起こっていると考えることも可能であろう。敢えてこのニ字を分析して「雨」の格を問えば、それは、目的語なのだと言う。
この文の主語はいったい何処へ行ったのか。
 英語やドイツ語では、主語の無い文章が、少なくとも古い時代には一般的であった。遠く離れた中国では、現代会話においても
主語の無い文章が行われている。
 「主語という概念は、構文上は必須のものではない。」という事実は、常に肝に銘じるべきであると強調して置きたい。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-10-21 20:30 | Trackback | Comments(0)