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アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその7  通巻第129号

 コシャマインという英雄が、どのような人だったのか、講談社「周縁から見た中世日本」という本であらましを見てみよう。
同書の〔コシャマインの戦い]の項に以下の記述がある。
...舞台の中心は夷島(えぞがしま)に移りつつあった。その夷島で、康正二年(一四五六)夏に、アイヌと和人の大規模な戦いが始まった。この年の春に志濃里(しのり)の鍛冶屋(かじや)村で、マキリ(短刀)を注文したアイヌの少年と和人の鍛冶屋が、品物の品質や値段のことでもめ事を起こし、鍛冶屋が少年を短刀で突き殺すという事件がおこった。それがきっかけで、アイヌと和人の対立がおこり、大首長のコシャマインに率いられたアイヌが、志濃里・箱館をはじめとする和人の館を次々と攻略することになったという。十五世紀の渡島半島に、道南十二館という和人の館があったことは、先にも述べた。「新羅之記録」という、十七世紀にできた松前氏の家の歴史に出てくるものである。舘の名前・館主は次のように記されている。...中略....
 このうち、松前大館の下国(しものくに)定季、花沢館の蠣崎(かきざき)季繁、茂別館の下国家政を守護職といい、檜山の安東氏から館主たちの統率を任されていたという。コシャマインに率いられたアイヌ軍は、これらの館を次々と落とし、残ったのは下国
家政の茂別館、蠣崎季繁の花沢館だけになった。その時、花沢館の蠣崎季繁のもとに客将としていたところの武田信広が奮戦し、
コシャマイン父子を射殺し、あまたのアイヌを切り殺して、勝ちをおさめたという。...中略...
...夷島の戦国争乱に関する史料は、「新羅之記録」がほとんど唯一のものである。「新羅之記録」というのは、近世の松前藩主
松前氏の家譜すなわち家の歴史で、正保三年(一六四六)に、藩主松前景広によって作られたものである。松前氏は中世の蠣崎氏である。初代の信広は若狭国守護の武田氏の御曹司で、本来、武田家を継ぐべき人だったが、事情があって流浪し、下北半島の蠣崎
を経て夷島に渡り、蠣崎季繁の跡を継いだと伝えられる人である。武田氏は新羅三郎(しんら・さぶろう)義光の子孫と称しているので、その先祖の記録を「新羅之記録」と名付けたのである。
 家の歴史の多くがそうであるように、新羅之記録には蠣崎氏の夷島支配の正統性を強調するため虚飾を加えている部分がある。したがってそれを史料として利用する際には、その虚飾の部分を取り除く必要があるし、意図的に削除された事実があることも考えておかねばならない。  ...以下、省略。
 
 注意して頂きたいのは、「コシャマイン」という名が初めて史料に登場するのは、その名で呼ばれた英雄の死後、既に二百年近く後になっての事であるという事実である。何やら聞いたことがあるフレーズである。お察しの通り、コシャマインの名も、この英雄の死後に同族から諡(おくりな)されたものなのである。それは、何を意味するのか。「身を隠す」がキーワードとなろう。
  (次回につづく)


by atteruy21 | 2017-12-31 17:28 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその6  通巻第128号

 紀古佐美の名の意味の解明について、未だ十分ではなかったようだ。「紀(きの) = 森林(地帯)」の意味についても、きちんと説明して置かないと、意外な所で誤解の陥穽(かんせい=おとしあな)に落ち込んで抜け出ることができなくなるからである。
 森林地帯と聞いて、東北の寒冷な気候を考え合わせて、例えば北欧の針葉樹の大森林を思い浮かべた人はいないだろうか。そう考えてしまうと、「こさみ」の名は永遠に理解できないだろう。当時の例えば紀伊国の気候は(奥羽地方辺りも含め)現在と較べ、かなり温暖なものであったと考えられる。当時の森は低木広葉樹と繁茂した背の高い草に覆われた一種の密林(ジャングル)状態を呈し、魏志倭人伝に描かれるような、(隊列が森を行けば)「行くに、前人を見ず=進んで行くと、前を歩いている人の姿が、すぐ見えなくなる」状態の場所だったのである。このようなジャングル地帯での戦闘が、どんな様相を呈するのかは、現代の我々でも
理解可能だろう。数十年前の、当時世界最強と言われ最新の武器を装備したアメリカ軍が、小国で満足な装備もないベトナム軍に
勝つことができなかったのは、密林地帯でのベトナム人民軍のゲリラ戦に翻弄(ほんろう)されたためと言われている。
 もうお分かりだろう。「きの・こさみ」の名は、ジャングルの木々の間に身を隠し、神出鬼没のゲリラ戦を遂行する特殊部隊の
隊長の意味なのである。
 さて、例示したベトナム戦争でのアメリカ軍の戦略で、彼らの教訓としたものがあった。ベトナム軍のゲリラ部隊、米軍側は、これを「ベトコン = 越共(越南共産の略)」と蔑称したが、その不屈の抵抗に悩まされた米軍は、ほぼベトナムの全土に、森や川
民衆の住む部落や水田の上に、化学兵器の枯葉剤を散布し、ナパーム弾などによる全土に焦土作戦に打って出たのである。共産軍の侵略から南ベトナムを守る、自由を守ると称してベトナムに介入した米軍の、これが真の姿だったのである。
 この米軍の姿に、何か既視感を覚えないだろうか。その通り、坂上田村麻呂の全土焦土作戦、殺し尽くし、犯し尽くし、焼き尽くす、あの三光作戦は、蝦夷の抵抗を根こそぎ打ち砕くための、悪魔の作戦だったのである。坂上田村麻呂が、戦の時代を終わらせるため阿弖流為を説得し、降伏を決意させたなどという筋書きが、いかに欺瞞(ぎまん)に満ちた作り話だったのかは、説明する
までもないだろう。

 「きの・こさみ」と言う名が、密林に身を潜め、敵の攻撃から身を護るという意味だったとすれば、その「身を潜め」の語感が
アイヌの英雄、コシャマインの登場の露払いの役目を果たす、次の展開へのヒントになるのである。

 「コシャマイン」は、アイヌ語の構成では、「Kosam-ainu 」であると考えられる。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-30 10:16 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その5  通巻第127号

 紀古佐美は、「きの・こさみ」と読み、その意味する所は「森林警備隊(長) = Forest Rangers 」である。「紀伊国」という
国名(地名)はご存知の通り、「きのくに」と発音し「木の国(地方)」の意味である。ここで言う「木」は、一本一本の木や特定の種の樹木を指すのでなく、森林(地帯)を言う。紀伊国は現在の和歌山県を指すのだが、大和政権の時代、そこは鬱蒼(うっそう)たる大森林地帯であったのだろう。古佐美の出身地が紀伊国だったのかどうか、私は不勉強で知らない。出身地でないとすれば、命じられた職務が森林地帯での作戦に関わるものであった事によるとも考えられる。私は後者であると思う。
 さて、肝腎の「こさみ(古佐美)」の方なのだが、「きの = 森林地帯」と即座に比定できたのとは違い、この「こさみ」という語句は、そう簡単には兜(かぶと)を脱いではくれないのだ。仕方なく、アイヌ語と古い日本語を種々に引き較べ、突き合わせて、一つの可能性にやっと到達した。
...先ず、アイヌ語の方である。仮設(かせつ=考えられる設定)として、私は「ko-sam = コ・サム 」という形を復元した。現代のアイヌ語では存在しない語彙なのだが、古語を考える上では許される技法である。「ko-sam 」は「側(そば)に」とか「側に身を
寄せる」を意味する。似たような語法としては、「 samane =~に寄り添う」がある。「yay-samane-na =自身の心に寄り添って
唱いますよ」がこの題名の意味するところである。ヤイサマは、我が想いを唱い上げる恋の歌が多いのはよく知られている。
 「コサム」という語句は、何か「大きな存在に我が身を寄せる」という語感から出発して、「物陰に隠れる」とか、更に隠れるから尚も意味が拡大して「大きな力からうまく身をかわす」といった意味の変遷が有ったのではないかと思う。
 こうした意味合いで、参考になる日本語の言葉がある。黒白の石を並べる囲碁の世界の用語に、「コスミ」という名詞やそれを動詞として用いる「コスム」という用語がある。母音に違いがあるのを気にしなければ、意味合いは復元したアイヌ語のコサムと
ほぼ一致する。コスムは、敵の攻撃から身を交わして、碁盤の端に対して斜めに石を繋ぐ方法である。直線的に攻撃から逃れるのでなく、クレバーなアウェイ作戦に名付けられた用語なのである。アメリカ大リーグにドジャース(Dodgers )という人気チームがある。「ドッジ」というのは、「ドッジボール」などで分かるように、「うまく身をかわす」を意味し、誉め言葉になるのであるが、使いようによっては「上手く立ち回るこずるいやつ」という有りがたくもない名にもなるのである。
 「コサム」も「コスム」も、この「ドッジ = 身をかわす・危険から逃れる」という語と共通の概念を表しているのだと、私は考えているのである。
  この考えは、あくまで思いつきの域を出ないものであって、専門家の批判に堪えるものではない。しかし、無視することも出来ないだけの、深い関連性を感じさせる因子を含むものであると私は思っている。「こさみ」の意味は、後のシャクシャインの名と関連を持つからである。次回は、その関連性の立証に取り組みたい。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-29 11:58 | Trackback(4) | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその4  〈通巻第126号〉

 『紀古佐美』という名の分析と解明に入るためには、その前提として、この人がどういう存在であったのかを知ることが、先ず必要になるだろう。
 古佐美は大和政権の武人である。この時代の武人とは、どういう性格を持った集団であったのか、これを知ることが先ずもって
肝腎(かんじん)な事である。大和政権は、その支配圏を拡げるに当たり独特の戦略をとった。前回に述べた「蝦夷の移配と部民による植民政策」である。
 紀古佐美らの武人が、どんな役割を与えられたのかを正確に知るためには、植民政策の道具とされた、この「部民」がどういう
人たちであったのかを知ることが鍵となる。歴史の本で見る「部民」という言葉でイメージされる存在といえば、まず殆どの人が
「蝦夷ではない大和系の人で、国の政策に従順な働く農民」の姿であろう。この働く農民を蝦夷の攻撃や妨害から守るのが武人の
存在理由なのであると....。 実はこのイメージは、この当時の「部民」の実際の姿とは大いにかけ離れていたのである。当時の農民は、鍬を握っただけの、平和的に農耕する者では決してなく、鍬と鎌を持ち、時に刀で武装した民(たみ)であったのである。
 「部民」というのは、今日の感覚で言う、「国から保護されて植民地で働く平和的内国民」などではなく、国の植民政策の尖兵(せんぺい)となって命をも賭ける、そういう存在であった。この「たみ」という語彙は、今日的(こんにちてき)な、平和に暮らす
民衆の意味とは正反対に、当時の大和言葉では、敵と面する最前線で敵に突きつけた刃(やいば)を意味する言葉だったのである。
 「たみ」は正に、「尖兵」に該(あ)たる語で、「えみし」という語の対語となるのであるが、その詳細の追究はここまでとし、
本題に戻ることとしたい。
 部民というものが、自ら武装した植民地政策の尖兵の性格を持った集団だったとすれば、武人の役割は何であったのか。発想を
変えて、逆方向から考える方が分かり易いだろう。植民者集団は、蝦夷との競争を通じて自ら武力を蓄え、武士団とでも言うべき
集団を自らの内部に産み出した。これが大和政権側の武人となって各地に広がって行くのである。また、一方の蝦夷側にも、別の
沿革で武力機構が形成されて行く。「夷を以て夷を制す」政策に基づき、対蝦夷軍事体制の構築が進められ、蝦夷の族長クラスを
政権軍の副将軍として登用することが行われたのである。呰麻呂は、正にこのタイプの副官だった訳である。
 こうした大和政権の武人と、蝦夷対策のための蝦夷出身の補佐役の武人が、互いに協力し、時に争って、後に「東国武士団」と
呼ばれるような集団の成長へと発展し、俘囚勢力の長たる阿倍氏や安東氏、(奥州)藤原氏、更に平氏・源氏の武家政権の登場へと
歴史の舞台が廻って行くのである。
 長い背景説明になった。「きの・こさみ」の出番を一日遅らせてしまったが、必要な回り道だと思って勘弁して欲しい。
次回こそは、「きの」と「こさみ」の正体の解明に挑戦したいと思う。   (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-28 11:32 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその3

 「古佐美(こ・さ・み)」という名が、それを耳に聞いた音(おん)が、蝦夷(えみし)の脳裏にも、大和人(やまとびと)の心にも、共通の映像を思い浮かべさせたのではないかと述べた。それは、両者が口にしていた言語が、細部に異なる点を持ちつつも、その基底において、その奥底を貫く共通の血の流れがあったと主張するものに他ならない。東北地方の農民文化の中で、冬場に狩猟を生業(なりわい)とした「マタギ」と呼ばれる人々がいた。マタギたちの生活には、狩猟で山入りする時に用いる「マタギ言葉」と
いうものがあったという。この「マタギ言葉」は、狩猟技術の用語に限らず、その他にも宗教的な物の考え方を表す多くの特別な語彙を持っているのである。そして、このマタギ言葉は、その殆ど(ほとんど)がアイヌ語で解釈が可能なのである。
 この論考はマタギ言葉が何処から由来したものなのかの探求が目的ではないから、これ以上の追究は控えるが、紀古佐美などが生きた時代の東北地方は、相争う蝦夷と大和の兵士の間に、互いに通じ合う言葉や考え方、感じ方が有ったという主張が、決してとるに足らない馬鹿げたものではないという事を知っていただく上で、特に参考になるし、また参考にして頂きたい事柄だと私は思うのである。
 この時代に先行するかなり古い時代から、天皇制国家は、蝦夷をその故郷の地から切り離して遠い異国へ移配し、そこに自らの部民を植民させる政策を採ってきた。また、蝦夷同士を分断し、反抗する蝦夷のグループには親和的グループを対抗させるなど、
所謂(いわゆる)「夷を以て夷を制する」政策を推進してきたから、日本全国至るところ、和人と蝦夷の斑(まだら)状の雑居状態が
進んでいたのである。阿弖流為たちを取り囲んだ軍勢の兵士の中にも、動員されて心ならずも参陣した蝦夷たちが少なからず存在したのである。
 あの「呰麻呂」自身が蝦夷であり、呰麻呂と闘った(闘わざるを得なかった)多くの武将(征討将軍の部下たる指揮官)も、蝦夷の族長クラスが多数という実態だったのである。呰麻呂が最初に血祭りに上げた「道嶋大楯」も、和人の武将なのではなく、或いは
蝦夷の出身であったということも考えられない事ではない。史書では、大楯は蝦夷の出の呰麻呂を侮辱したとされるのだが、この記述を鵜呑み(うのみ)にするのは、危険なのかも知れないのだ。大楯は、将軍の部下として忠実に対蝦夷作戦を遂行しようとして
呰麻呂と衝突したに過ぎないのかも知れない。朝廷側から見れば、畏(おそ)れ多くも帝の軍勢に反乱を企てた、大悪人の呰麻呂に
対して、身を挺(てい)して闘い、敗れた忠臣である。諡(おくりな)するに『大楯(おおだて)』の字を充てたのは、正に当然の措置
だった訳である。悪の頭目・呰麻呂の策動から、帝の威光を護らんと『大きな楯となった漢(おとこ)』として諡されたのである。

 次回は、いよいよ「きの・こさみ」という語の分析と解釈に取りかかろう。それは、その男の役職と特徴を表す特異な名付けで
ある。意外な展開が有るのかも知れない。「乞うご期待」である。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-27 12:32 | Trackback(54) | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその2

 「阿弖流為」や「母礼」という名が、親から付けられた名なのではなくて、実は、彼らを盟主として闘った蝦夷たちが、戦いの中で二人の英雄の優れた統率力を讃え、畏敬の念を込めて呼んだ一種の渾名(あだな)だったと言うことは、ご理解頂けただろう。
 しかし、この名付け方に見られる思考の枠組み、換言すれば人間観の特徴が、蝦夷だけのものではなく、実は闘いの相手である大和政権軍側にも同じように働いていたと言えば、多くの方が意外に感じられるに違いない。

 前に、「道嶋大楯(みちしまの・おおだて)」という武将や「蘇我蝦夷(そがの・えみし)」の名を挙げて、この名は子どもの頃に
親から付けられた名ではなく、のちに仕事との関連で付けられたのではないかと述べたことを覚えておられると思う。
 だが、この二人は共に言わば「武門の出」であって、子どもの頃から強い漢(おとこ)になるべく、願いを込めて親がつけた名であると見ることも可能なことは事実である。「蝦夷(えみし)」という名は、もう一つの「毛人(えみし)」という名と共に、武人の美称としても少なからず用いられた名であった。『蘇我蝦夷』といえば、古(いにしえ)に天皇の権威にも迫る程の権勢を誇示した
一門の出で、権力の中枢部に身を置いた人物である。勿論、朝鮮半島から渡来した家系の末裔であり、権力の中枢部にあったとは言え、「蝦夷 = 異邦人」という見方からすれば、正に自身が「蝦夷中の蝦夷」である訳である。注目して頂く必要があるのは、「蝦夷」という語を美称として用いるのであれ、差別的に呼ぶのであれ、片や大和政権側にも、もう一方の阿弖流為など原住民の側にも、共通して流れる重奏音のようなものが有ることである。
 民族の垣根を超えて、名付けにおける共通の価値観が存在したということを私は主張しているのである。こうした見方にたって
英雄コシャマインの登場を迎えて頂きたい。英雄の登場を、その名付けの必然性の点からアプローチして、人物像の正確な理解に至るというのも、余り例は見ないが、有効な方法だと私は思う。
 この方法に拘(こだわ)るのは、「コシャマイン」という名が、後に「シャクシャイン」という名の、「シャクシャイン」という英雄の登場を必然とするからである。この二つの名は、互いに呼応して、セットになって初めて意味を醸(かも)しだすものなので
ある。

...阿弖流為の神出鬼没の作戦に翻弄され、幾度となく苦汁を飲まされた征東大将軍「紀古佐美(きの・こさみ)」に、また登場を願おう。今回は、その武力のことでなく、その名の謂(いわ)れを語って頂くことにしたい。
 「古佐美(こ・さ・み)」という名は、大和政権軍の兵士の耳にも、蝦夷軍の兵の心にも、その音(おん)を聞けば自ずから浮かぶ
イメージがあった。言葉の、基底での共通する感覚があったのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-26 11:30 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(その1) 通巻第123号

 阿弖流為が降伏したのではなく、和議と偽(いつわ)られ謀殺(ぼうさつ)されたのであるという主張には、多くの方がなかなか納得が行かないという感情を持っておられるようだ。
 阿弖流為の指揮の下に田村麻呂の陣営に入城した、指揮官を含む五百余の兵のその後の運命については、史書には何も触れられていない。もし阿弖流為の投降が、兵の助命を嘆願してのものであったら、当然に兵は赦され郷里に帰された事だろう。仮に史書には触れられずとも、兵の助命だけは認められたのだと信じたい方があれば、そういう方には、こう申し上げて置きたい。
 ...たとえ歴史書に記載はなくとも、阿弖流為の嘆願により助命され帰郷した兵士があれば、必ずや故郷の人々に、阿弖流為や母礼を讃え、田村麻呂を神のごとく敬う土産話をするだろう。また、そうした説話が蝦夷の人びとの伝承となる筈であると。
 阿弖流為と田村麻呂をモデルとしたと見られている『悪路王(あくる・わう)』の伝説が有る。周辺の民に仇を為す悪鬼の首領を
田村麻呂を指すと見られる将軍が、達谷窟(たっこくのいわや)という所で誅殺する話である。ただ、この伝説で述べられるのは、
あくまでも打ち取られたのは邪悪な鬼であって、田村麻呂だけが英雄なのである。これは、蝦夷の伝承にはなり得ないのである。

 兵は、阿弖流為と母礼以外の誰も、生きて胆沢城を出ることはなかった。達谷窟(閉じ込められた部屋のこと)で全員が殺されてしまったからである。これが史書の、敢えて沈黙する所以(ゆえん=理由)である。

 田村麻呂は、その後、神格化されて、蝦夷の血を引く東北の民衆の間にさえ、徐々にその軍神としての姿を浸透させて行く。
蝦夷たちは、阿弖流為亡きあと、そのアイデンティティー(自己肯定感)と誇りを、何処に、何に求めたのだろうか。民族の精神を求めての彷徨(ほうこう=さ迷い歩くこと)が、このあと約五百年の長きに亘って続くことになるのだが、「コシャマインの乱」によって、再び民族の魂の叫びが上げられる。

 阿弖流為の死後も、各地でいわゆる俘囚(ふしゅう)の反乱が起こる。権力を脅かす争乱に発展したものさえ有るのではあるが、しかし、それは組織だった闘争にはならず、散発的に、ある地方の範囲内でその覇権を争うだけのものでしかなかったのである。
全軍を指揮できる指導者を持ち得なかったことが、これらの乱の特徴である。阿弖流為のような民族的統合の象徴となれるような
指導者を持ち得るまでに、蝦夷たちの同族意識が育っていなかったということである。
 さて、蝦夷と大和の戦いは、北へとその場を変え、武家政権とアイヌ民族との衝突という形で再燃する。アイヌ民族の指導者と
なった男の、その名は何と言ったのか。   (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-25 10:39 | Trackback | Comments(0)

英雄アテルイについて(その22) 通巻第122号

 坂上田村麻呂の新戦略=「全土焦土作戦」により、蝦夷軍は戦略の抜本的見直しを余儀なくされた。たとえ双方の正規軍同士の正面からの戦闘で何度勝利したところで、後方の蝦夷たちの村が焼かれ、非戦闘員である女や子どもが狙い撃ちに虐殺されては、戦う意味がないのである。
 歴戦の中でも、敗北の二文字を知らなかった阿弖流為も、蝦夷勢全体が、人的にも物的にも疲弊した下では、老獪(ろうかい)な
田村麻呂の不実かも知れない「和議」の申し入れに、応ぜざるを得なかったのである。
 狡猾(こうかつ)な田村麻呂は、言葉巧みに和議を申し入れ、恐らくは、蝦夷の総帥たる阿弖流為が京師(けいし=都)の帝の許に
赴き、対等の和議交渉をと誘ったのであろう。もちろん、田村麻呂にそんな気はさらさら無かったのは言うまでもない。
 阿弖流為が、騎乗、武装した精兵五百を率いて田村麻呂の陣に入城したのは、都びとに蝦夷軍の偉容を見せようとしての行動で
あったのである。また、蝦夷たちを信用させるために、武装した兵の同行を認めるからと阿弖流為を説得したのであろう。勿論、
武装した兵を都に連れて行く積もりはなかった。阿弖流為一行の入城後に、盛大な宴会が催され、武装を解かれた兵たちは、その
入った兵舎ごと押し潰され、焼かれたに違いない。
 この想像は、私の勝手な想像ではない。アイヌの英雄たちに対して常に用いられた、謀略の一つの典型的な方法だからである。
「反乱」を起こしたアイヌの勢力に対し、和議を申し入れ、武装解除させた上で宴会を催し、家ごと押し潰し、焼き殺すというのは、天皇の勅(ちょく)にも登場する、大和政権軍の常套手段だったのである。
 英雄アテルイは、こうして敵・田村麻呂の手中に落ちた。都に連行され、同志・母礼と共に処刑されたのである。しかし、この
阿弖流為の処刑にも関わらず、その後もアイヌの大和政権(レプンクル)に対する抵抗は止むことは無かった。

 このあと、抵抗の炎が新たな英雄を生んで行くことになるのだが、それらの英雄の登場を語る前に、今まで出てきた英雄やその
他の登場人物の名前に、一つの特徴、敵味方の別なく法則的な共通点が有ることに気付かれた方はおられないだろうか。
 阿弖流為や母礼の名が、生まれたときに付けられた名ではないという事は、皆さんご承知の通りである。しかしその一方、和人名の方も、例えば「道嶋大楯」の『大楯』のように、どうも最初から子どもの時から付けられたのではない、大人になってから、
仕事との関連で付けられたと思われる名が存在すると言うことである。
 少し時代を異にするが、蘇我蝦夷(そがの・えみし)等の人名を考えると、大和と蝦夷という民族の枠を超えて、名付けにおける共通の文化という問題があると思う。これが、新たな英雄とその名に繋がる鍵の言葉(キーワード)となる。
  (次回から新シリーズとなる)


by atteruy21 | 2017-12-24 14:34 | Trackback | Comments(0)

英雄アテルイについて(その21) 通巻第121号

 蝦夷の出でありながら天皇の臣下として取り立てられ、蝦夷支配の武器として期待を一身に集めていたその男が、任官の当初は
どんな名を名乗ったのか、賢明な方なら凡(およ)その見当がついたに違いない。裏切った、不忠な者が「あざ」と呼ばれるなら、裏表のない正大な忠誠心を持つ者は、その反語である「あさ」と呼ばれる筈である。
 『陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公朝麻呂』=「むつの・くに・かみはる・ぐん・だいりょう・げ・じゅごいの・げ・これ・はる・の・きみ・あさまろ」と言うのが、任官時のその男の名だったのだと私は考えている。

 「呰麻呂」本人かその直接の後継者が、蝦夷全軍を指揮して大和朝廷軍を翻弄し、大きな打撃を与えて、のちに「阿弖流為」と
呼ばれる英雄になったことは、ほぼ断言して良いだろう。また、東北地方と北海道と地理的に離れ、何よりも九百年に近い時間を超えてアイヌの人たちが伝承してきたカムイや英雄の謡(うた)が、実は歴史上の実在の人物を敬い、その事績を語り伝えたものであったと言うことが、伝承に散りばめられた真実の断片を繋ぎ合わせる作業により確認できた、と私は信じている。

 阿弖流為に関するこの考察も、いよいよ終章に入ろうとしている。この論の冒頭に述べたように、阿弖流為は坂上田村麻呂との
信頼関係を基に、赦(ゆる)しを乞うて大和朝廷に降ったのではない。武装騎乗して赦しを乞うなどあり得ないのである。
『続日本紀』の記述を改めて見て頂きたい。それは以下の通りである。
...延暦廿一年四月十五日 夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼等五百余人の種類を率いて降る...

  注意を要するのは、使われた言葉の、文字の深い意味である。これは歴史書の記述であって文学作品ではない。政治的効果を
含め、文は厳密な推敲(すいこう)を経て文言(もんごん)を選択、決定している筈である。歴史書は、勝者が書く。にも関わらず、
その文言が、隠された真実を洩(も)らす結果となっていることは皮肉である。或いは、敵味方の垣根を超えて、阿弖流為の姿への深い思いがあったのかも知れない。
 阿弖流為とその軍勢は、朝廷軍との関係においては、一度たりとも「敗北」と評価されるような戦(いくさ)をしていない。その
事実に立って、この文言を考えて頂きたい。
...五百余人の種類を率いて降る...の部分である。敗残兵を「率いる」とは、日本語では決して言わないのである。兵士は命令と指揮に基づいて、規律をもって(堂々と)田村麻呂の陣営に入城したのである。五十人の指揮官と四百五十の兵士が整然と入城したのは、停戦ないし和睦を目的とした交渉のためであったのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-23 11:32 | Trackback(1) | Comments(0)

英雄アテルイについて(その20) 通巻第120号
 「呰麻呂」と呼ばれた人物の正体を探り当てるまで、あと僅(わず)かの所まで来た。少し結論を出すのを焦って、正しい理解に達するまでに必要となる手続きを跳ばし、省いてしまったような気がする。そこで、少し振り返って、アザマロの「あざ」という言葉を大和言葉で再検討してみようと思う。
 「あざ」という音(おん)を含む語彙を洗い出して見ると、有るわ有るわ、「あざとい」、「あざける」、「あざわらう」、更に
あったぞ! 「あざむく」。最後のこれに違いない。「欺(あざむ)く」という語彙である。これならば、中国語での分析結果とも
矛盾しない、いや一致すると言って良いだろう。呰麻呂は、朝廷の期待を裏切って、恩を仇(あだ)で返したのである。
 「あざ」は、また、「あだ(仇)」にも通じるのであって、「ざ」という音と「だ」という音は、前にアイヌ語と日本語の兄弟の関係を問題にしたときに述べた「同一の音価をもつ」場合があるということに注意を払う必要がある。
 また、日本語には、「濁音」と濁りのない「清音(せいおん)」の区別に特に意義を認め、価値の有無に結び付ける傾向があると
言うことに注目をする必要が有るのである。濁音を含む語彙は、清音の語彙に対して価値のないものを表す事が多いのである。
 この事と関連し、歴史上の有名な話を取り上げてみたい。織田信長の妹「お市の方」を妻とし、最後には義兄の信長に討たれた
浅井長政という武将がいた。この長政は、その姓を何と言うか。私の子どもの頃の教科書には、「あさい・ながまさ」という名で
登場した。しかし現在では、ドラマなどでは、出演者は「あざい・ながまさ」と発音している。ここに「アザマロ」という名前の
秘密が隠されているのである。なぜ呼び名が変わったのか。それは、両方とも正しい呼び名だったからである。
 戦国大名・浅井長政は、元々は字の通り、「あさい・ながまさ」と名乗っていたのである。ただ、信長を裏切って信長を怒らせ、首一つになってからは、改名され、「あざい・ながまさ」となったのである。信長は恐らくこう言って周囲に命令したものと
思われる。
...あの、余を裏切りおった長政が、あさい(浅井)の姓を名乗るなど、笑止千万(しょうしせんばん)である。裏切者に相応しく、今後は「あざい」と呼び捨てるが良かろう!...
 なんの事か分からない方も多かろう。「あさい」は期待に応える忠義者を意味し、一方「あざい」は、期待を裏切って反逆した
不忠者の意味だからである。呰麻呂と同じ改名を、信長は命じた訳である。証拠書類を提出する。「紀朝臣広純(きの・あそん・
ひろずみ)」は、既に登場した武将の名だが、その肩書の「あそん」は、語源などもハッキリしていない不思議な名詞である。
 朝廷の大臣だからとか、吾兄臣(あ・せ・おみ→あそみ→あそん)だ等と、語呂合わせのような愚にもつかぬ説明を、辞書を書くほどの博士が大真面目に論じているのは寂しい限りである。朝廷を「あさ」等と略称する筈もないし、第二位の高い身分に「わが兄」等の語が入るいわれがないのである。「あさ・おみ」は、天皇に「忠誠を誓う臣下(おみ)」の意義を表し、また「朝のように明るく正大な臣」を意味するのである。   (次回につづく)

by atteruy21 | 2017-12-22 14:44 | Trackback | Comments(0)