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アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その38  通巻第160号

 大和朝廷時代から徳川幕府を経て明治政府に至るまで、日本列島の原住民である「蝦夷(えみし)→蝦夷(えぞ)→アイヌ民族」に対する和人勢力の姿勢や構えは、先住民に対する敬意を欠く、極めて身勝手なものであった。生活習慣や信仰を含め現在の日本に生きる我々にとって、自身の在り方、生き方の土台となった大切な考え方の多くをこれらの先人に負うていながら、その事にすら想いを致さず、ただ漫然と生きるのは賢明な生き方とは言えないだろう。先住民に対する感謝と敬意どころか、江戸時代や明治時代の差別意識を引きずっていないと誰が言い切れるだろうか。
 蝦夷(えみし)と呼ばれた人々の、優れたものの見方・考え方を、今生きている我々もそれと知らずに受け継いでいるし、多かれ少なかれ現代の日本人にも、蝦夷(えみし)と同じ血が流れ、繋がっているのだと私は思っている。わが身と心の古里(ふるさと)、わが内なる蝦夷の世界を知ることは、現代を心豊かに生きる上で欠かせない、高い価値を持っていると私は思う。

 その「先住民に対する敬意を欠く」態度の原型になったものを、「アイヌ民族抵抗史」の記述を通して見極めてみよう。少し、
嬉しくはない作業になるかも知れないが、我慢して真実を見極めるよう互いに努力しよう。過ちを知ることは、それを乗り越え、
視野の広い豊かなものの見方を勝ち取るために、是非とも必要なものだからである。

...「文化的・平和的征服」
 『日本書紀』は倭建命(やまとたけるのみこと)の「蝦夷征伐」について、次のように記している。「景行天皇廿五年七月三日、
武内宿禰(たけのうちのすくね)を遣わせ、北陸及び東方(あづま)諸国の地形、百姓(おほみたから)の消息を視察さす。景行天皇
廿七年二月十二日 武内宿禰東国より還り参りて奏言(まお)さく、東夷の中、日高見国(ひたかみのくに)あり、其国人男女並に
椎結(かみをわ)け、身を文(もどろ)げて、人となり勇悍(いさみたけし)、是を総へて(すべて)蝦夷と曰(い)う。亦(また)土地沃壌(こ)えて曠(ひろ)し、撃ちて取るべし。
 景行天皇四十年夏六月 東夷多(さわ)に叛(そむ)きて、辺境騒動(さわぎとよ)む。
七月十六日 天皇群卿に詔して曰く、今東国安からずして、暴神(あらぶるかみ)多に起る。亦蝦夷悉に叛きて、屡(しばしば)人民を略(かす)む。誰人を遣わして其の乱を平(たむ)けむ。
ここで倭建命の東国出発、有名な「草薙の剣」の物語や...以下、次回に。

 (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-31 11:59 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その37  通巻第159号

 前回の記述に誤りが有ったので、訂正の上、補足をして正確を期したい。大切な人名、シャクシャインの息子『カンリリカ』の
アイヌ語の分析で単語の意味をウッカリ混同してしまった。
...カンリリカ→「 kan-rir-ika 」を「上の・潮(=海)を・越えて」と訳してしまったのだが、この内、「 rir 」という語彙は、
潮という意味は無く、「波」という意味が正しいものである。オヤルルの「 rur 潮」に引っ張られてのうっかりミスなので訂正して、正しい訳語も「波を越えて」が正しいものとなる。ただし、この「波」も「潮」と同様に、熟する時は(熟語になるときは)
「海」を表すことになるのではあるが、見苦しいので言い訳はここまでとしたい。
 そう訂正した上で、この際なので、よりシャクシャインの名付けの意図を汲んだものに改め、「海を越えて」ではなく「波涛(はとう)を越えて」に訳語も調えることにしたい。

 さて、「シャクシャイン軍の敗北」に戻ろう。指導者が殺され、砦も焼き払われて、蜂起軍が鎮圧されたことは紛れもない事実
であり、これが「敗北」という概念に当たることも疑いない。だが、どういう状況の中でこの事実が生起(せいき)したのか、その状況の違いによっては、同じ『敗北』という二字でも全く異なった様相を見せるのである。卑劣で恥ずべき、惨(みじ)めな勝利というものが有る一方で、負けはしたけれども、何ら恥ずべき所の無い、『名誉有る、誇り高い敗北』というものも一方には有ると
私は信じている。
 敗けは敗けでしかないと、卑下してはいけないのである。後に(勝利に)繋がる負けというものも有るのだ。民族の歴史に関わる
問題であれば、その民族のあとを継ぐ若者たちが、祖先たちが誇り高い戦いを闘ったのか、どう生きたのか、必ずしも勝敗が全てではないのである。こうした意味で、シャクシャインの戦いを、アイヌ民族の蜂起とその敗北を、正しく総括してやらなければ、
アイヌ民族にとっても、日本人全体にとっても、人間としての誇りが、良心が浮かばれないのである。

 繰り返す事になるが、アイヌ民族の同胞全体を挙げての蜂起は、正に勝利を目の前にしていたと私は考えている。だからこそ、
松前藩(幕府軍)は、卑劣な偽(いつわ)りの和議を申し入れざるを得なかったのである。アイヌ軍は、これ以上戦っても勝てそうもないから和議に持ち込もうとしたのでは決してないのである。

 「シャクシャインの蜂起」の検証を終えるに当り、次回は古い歴史に遡った「アイヌ民族抵抗史」の記述に眼を向け、歴史への
視座を再確認して、この問題の終章としたい。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-30 13:03 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その36  通巻第158号

 シャクシャインの蜂起への檄(げき)にアイヌ同胞たちは心を揺さぶられた。檄は津軽海峡を越えて、盛岡藩領や津軽(弘前)藩領
までもたらされたと思われる。シャクシャインは、蜂起の勃発より以前のかなり早い時期から、本州の北部に広がるアイヌ同胞の
居住地域の動向に注意を向けていた。それを推察させる一つの根拠が有る。アイヌ民族全体の自己意識が、どう成長していたのかがユーカラ等の「語りもの」に示されていると私は思っている。
 
 東アジア地域での交易の発展の中で、アイヌの人々は、自らのアイデンティティを知らず知らずに高めていたのである。同一の
言語・文化・習慣の一致に、樺太や千島列島はいうに及ばず、本州東北地方までそれらが一致することを、アイヌの人々は驚きの
眼で改めて思い知った事だろう。
 ユーカラの少年英雄『ポイヤウンペ=小さな本州(北海道)人』の名は聞いたことがお有りだろう。歴戦のあと、レプンクル(外国人=和人などのこと)に勝利して故国に凱旋するという話なのだが、敵中に美女を見出だし、これを妻として故国に帰るという話に
なっていることは前に述べた。その敵中の美女に該たるキャラクターの一つに「オヤルル姫」がいる。もともとレプンクルの側に身を置く女性だったのだが、自らも奮戦した戦いの中で感じる所があり、最後には自身の親や兄弟を捨ててポイヤウンペの味方となる。シャクシャイン側の掲げる「民族の大義」に心を揺さぶられた人がいたということを詠っているのである。
...「オヤルル」は、何を意味するか。アイヌ語では「oya-rur」= 「他の・別の」- 「潮(うしお)」である。なお、rur は熟語に
なる時は海(atuy)の意味を表す。結果として「オヤルル」は「他の海」ないし「海の外」を意味する。『オヤルル姫』は、「海の向こうの姫」、つまり津軽海峡を越えて下北や津軽などの和人の地にいたアイヌ系首長の娘を指しているのだと私は思っている。

 敵地にあるアイヌ同胞に、民族の大義を訴えたのは誰だったのか。海を越えた同族の大団結を熱を込めて訴えた男は、オヤルル姫に恋心を抱(いだ)かしめた、その男とは誰であったのか。シャクシャインは、蜂起の時すでに六十四歳であったという。乙女に
恋をさせるには些(いささ)か歳を取りすぎていまいか。オヤルル姫の心を捉えた少年英雄「ポイヤウンペ」は、シャクシャインの息子の『カンリリカ』がそのモデルであった、そう私は想像している。彼の名カンリリカは、アイヌ語で「海を越えて」を意味し
「海の向こうの=オヤルル」と対をなす事が出来るからである。「 kan-rir-ika 」という語は、『上の・潮(=海)を・越えて』を
意味する。父シャクシャインの意を体(たい)して、津軽海峡を越えて大同団結と蜂起の訴えに奔走したカンリリカは、父に似て、
シレトッ(長身の美男)で、パウェトッ(雄弁)で、ラメトッ(胆力のある)三拍子揃った英雄であったのだろう。下北なのか何処かは
分からないが、そこに住むアイヌの首長の娘が彼に恋をしたのだろう。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-29 12:55 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その35  通巻第157号

 シャクシャイン軍が銃撃戦で敗れての後退でなかった事は、幕府討伐軍の動きからも証明される。通常、戦いの帰趨(きすう)を決する地上戦においては、敵を追い詰める大部隊が敵中を正面突破して行軍するものである。それが、敵方民衆を含む相手陣営に
決定的なダメージを与え、戦争終結に効果的に結び付くからである。しかし松前軍は、途中の内浦湾沿いに軍を進め敵を薙ぎ倒し
ながら敵の本拠を衝く堂々たる戦法は採れず、亀田から船に乗り、内浦湾(噴火湾)を横切って敵陣近くまできて、やっと上陸して再度戦闘態勢にはいるという作戦を採らざるを得なかったのである。
 何故、勝利に向かう王道を進まなかったのか。それは、その進軍の行程が、幕府(松前)軍にとって余りに危険が多すぎたからである。「下北・渡島と津軽海峡」に指摘のあるように、内浦湾周辺はアイコウインを頭とするアイヌ集団の支配下にあり、戦局の
推移によっては松前に攻め寄せる構えを示すほどの敵地である。しかも、そこは、道南地域との一帯感をもってアイヌ系の住民が住む下北方面に繋がっているのである。津軽海峡というのは、アイヌ民族にとっては内海に過ぎず、いわば瀬戸内海を行き来するほどの感覚で人々は行き交(か)ったのである。地図で見比べて欲しい。道北の稚内(ワッカナイ)から礼文島までの距離と、道南、例えば函館から下北・大間崎までの距離は、下北までの方がずっと近いのである。
 松前軍の鉄砲に追いたてられて、というイメージは幾らか薄まっただろうか。では、いま暫(しばら)く「アイヌ民族抵抗史」の
記述を逐(お)ってみよう。
...しかし佐藤権左衛門は、なおもシャクシャインを陣内に引き止め、十月二十三日、松前の後軍が到着するのを待って、和議の酒宴と称してシャクシャインたちに酒を飲ませ、時を見計らってにわかに襲いかかったのである。こうして十六人のうち、二人は生け捕りにされ、激しく抵抗するシャクシャイン以下チメンバらの有力な指導者十四名が斬られる。
松前軍は翌二十四日、指導者を失ったシベチャリに攻め入り、真歌(マウタ)の丘に建つシャクシャインの砦をすべて焼き払った。
こうしてシャクシャインの独立戦争は終わりを告げたのである。この時、シャクシャインは六十四歳であったと言われている。

 「鉄砲の威力」への無条件の信仰(=神話)が、足元から崩れ去ろうとするなか、何故、シャクシャインは偽(いつわ)りの和議交渉に応じたのか。シャクシャインは持久戦に持ち込んでの戦術的勝利を信じていたし、道南から下北方面にかけてのアイヌ民族の糾合(きゅうごう=一つに集めること)に自信を深めていた様子がある中で、なぜ子のカンリリカの勧めによって翻意したのか。
 新谷氏の、「抵抗史」の捉え方には解釈の誤りが有るのではないか。戦っても勝ち目が無いと言ってカンリリカが和議に応じるよう勧めたように抵抗史の記述では読めるのだが、私は逆に、戦えば勝てそうな有利な状況だから、今こそ有利な条件での和議を
勝ち取ろうと、カンリリカが勧めたのだろうと思う。「カンリリカ」と言う名にその秘密が隠されているのだ。(次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-28 16:30 | Trackback(1) | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その34  通巻第156号

 松前軍の鉄砲に追いたてられて、アイヌ軍は後退を余儀無くされた。少なくとも、討伐軍の眼にはそのように見える状況が現出されたのは事実である。しかし、有名な阿弖流為の「衣川の決戦」の前段の、大和政権軍との遭遇戦を思い起こして頂きたい。
 ...「賊帥(ぞくすい)夷阿弖流為の居に至るころおい、賊徒三百人許(ばか)りあり、迎え逢いて相戦う。官軍勢強く、賊衆引き遁(のが)る。且(か)つ戦い且つ焼き、巣伏村に至りて前軍と合流せんとす。」(『続日本紀』延暦八年六月三日)...
 このあと、阿弖流為の戦略により挟み撃ちにあった紀古佐美率いる政権軍は、混乱の果てに潰滅(かいめつ)状態に追い込まれる事になるのはご承知の通りである。こういうのを「陽動作戦(ようどうさくせん)」と言うのだが、鉄砲に追いたてられてと単純に
状況判断をしてしまうのは、危険な場合があるということに注意を払わなければならないのである。
 確かに、鉄砲の威力はシャクシャイン軍の兵士の眼にも恐るべきものと見えただろう。しかし兵士の足をすくませる事はできなかった。また、鉄砲が存分に威力を発揮する場面というものが、この時に本当に有ったのかも吟味されなくてはならない。

 『設楽原(したらがはら)の決戦=長篠の戦い』というのをご存知だろうか。戦国一の精強を誇った「武田騎馬軍団」が、織田・
徳川連合軍にあっけなく敗れたとされる戦いで、「三段構えの馬防柵」などの眉唾(まゆつば=疑わしいもののたとえ)ものの戦略戦術の話と共に、「鉄砲の威力」の凄まじさを証明するものとして永く「信仰」されてきた。
 しかし現在では、このような状況下で、騎馬軍団が潰滅するほどの破壊力を、果たして鉄砲隊が持ち得たのか、甚だ疑わしいと考えられ始めている。設楽原の地形から見て、五百メートルもない敵との距離を騎馬兵はあっという間に駆け抜けてしまうというのである。また有名な三段馬防柵も、現地の地形の制約から、大勢の兵が効果的に連射することはできなかったものと考えられ、
総じて、騎馬軍団が鉄砲に粉砕されたという状況はなかったとの見解に、今、研究者は傾きつつあるという。
 
 設楽原のように見通しのきく平原での両軍の対決ですら、鉄砲は決定的な損害を与えるまでに至らなかったのである。ましてや
当時の北海道の地形、自然環境を考慮すれば、「鉄砲に追いたてられて」という位置付けが、事実に即したものではなくて、単に既成観念による思い込みに過ぎないということも有るかも知れないのである。
 当時の道南の植生(しょくせい)の状況を想像してみて頂きたい。紀古佐美の時代の紀伊国(きのくに)程ではないにしても、原生林の中に戦場は在ったのである。或いは茅(かや)や芒(すすき)の密生する湿地帯を軍は進むのである。鉄砲など如何ほどの効果が
あったのか疑わしい。シャクシャイン軍が、敵をシベチャリの砦に、鉄砲も何の効果もない要害の地に誘い込んだのは、軍略の本道を行くものと言うべきであろう。追いたてられてというイメージは、まず捨て去って頂きたい。   (次回につづく)


by atteruy21 | 2018-01-27 13:20 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その33  通巻第155号

 新谷行氏の鋭い眼光が、一瞬だけ曇り、輝きを失う。歴史を見る視座に僅かな歪(ゆが)みが生じるのである。それをもたらした要因、躓(つまず)きの石は、前(さき)に述べた「鉄砲の威力」への信仰である。これから新谷氏の著書「アイヌ民族抵抗史」の『シャクシャイン軍の敗北』の部分をお読みいただく訳なのだが、何に躓き何故に判断を誤ったのかを考えながら、注意深く文を読んで頂きたい。
....「シャクシャイン軍の敗北」 クンヌイ川戦後も、シャクシャイン軍は弓矢で抵抗を続けるが、松前軍の鉄砲のために次第に
押し戻された。八月二十一日にはさらに松前藩本隊がクンヌイに到着し、いよいよ戦況は不利になった。こうしてシャクシャイン軍はシベチャリの砦に向かって後退を始め、松前勢は亀田から来た船に乗って内浦湾を渡って一気にエトモに進み、ここから総勢
六ニ八人を三陣に分けてピポク(新冠)を衝(つ)き、シベチャリの砦(とりで)に籠城(ろうじょう=城にたて籠る)したシャクシャイン軍と対峙(たいじ=向き合って立つ)するのである。
 シャクシャインの砦は、シベチャリの対岸、七十メートル近い断崖の上にあった。いわば自然の要害(ようがい)であり、ここに
立て籠れば、鉄砲でも効果がない。すでに蝦夷地の秋は深まっている。時が経(た)てばたつだけ松前軍が不利になって行く。
 そこで攻囲軍の考えたのが、例によって和議を申し入れて欺(あざむ)き、戦闘体勢を解いたところを見計らって騙し討ちにする
ことだった。攻囲軍の佐藤権左衛門は、和人がこの使いに立っては疑われると考え、松前藩に従っているアイヌを使い、再三にわたって工作する。
 この申し入れに対して、シャクシャインは当初耳を貸そうとしない。シャクシャインには持久戦に持ち込んで、雪と兵糧不足で敵が疲れたところで戦いを一気に決しようという考えがあったのかもしれない。
しかし、子のカンリリカの勧めによって翻意(ほんい=考えを変える)し、部下数十人を率いて松前軍の陣営を訪(おとず)れる。
 記録は「降伏すれば生命を助ける」と申し入れたと記しているが、それならば降伏勧告であって和議ではない。クンヌイ川以後、シャクシャイン軍に決定的な敗戦があったとは書かれていない。おそらく何らかシャクシャインの要求を満たす条件で誘った
ものと思われる。
 この時、シャクシャインとその部下たちは弓矢を携(たずさ)え、甲冑(かっちゅう)を身につけていたと言われる。そこで松前軍
第一陣(鉄砲組)の指揮者である松前権左衛門が武装を解かせてシャクシャイン以下十六名を陣内に招き入れたところ、シャクシャインは、宝としていた大小の刀類、鍬先、鍔等を集めて提出したという。これは、和議を受け入れたしるしである。以下、省略。
 何やら見たことがあるシーンではないか。阿弖流為の「降伏」シーンそのもの、瓜二つである。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-26 12:13 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その32  通巻第154号

 「下北・渡島と津軽海峡」は次のように続ける。
...『蜂起の終息と盛岡藩』...シャクシャインの蜂起そのものは、寛文九年十月二十三日に偽って和睦し誘殺するという松前藩の常套的な手段によってシャクシャインが非業(ひごう)の死を遂げ、翌二十四日に、その拠点であるシベチャリの砦(とりで)が焼かれたことによって一応の終結をみている。そしてこのことは、盛岡藩には閏十月九日に松前に置いた奥寺八左衛門からの、「向参
(降参)」しなかったシャクシャインを打ち取り、翌日シャクシャインの「住所」に押し入った旨の書状が届けられたほか、同日には松前兵庫(ひょうご)と八左衛門名(めい)の、公式の松前藩の通知も盛岡に到着している。
 しかし、このように、蝦夷蜂起が松前藩によって鎮圧された後も、盛岡藩は松前・蝦夷地への備えを解くことはなかった。盛岡藩は三戸給人(きゅうじん = 祿高を持たない家臣)を核とし、田名部をその拠点とする松前・蝦夷地に対する「押さえ」の構造を維持したのである。
 盛岡藩がその体制をようやく緩めるのは延宝期も最後になってからである。『雑書』延宝八(一六八○)年閏八月四日の条では、
「先年松前犹蜂起之時分」に、「御用意」のために田名部で建造した「御船ニ艘」が朽(く)ちたため解体し、「くき・かすかい
 =釘・鎹(かすがい)」を御蔵へ入れ置くよう、代官に指示している。このように、蝦夷地への出兵のための軍船は、この時まで田名部に保管されていたのであり、それが解体されたのは、ようやくこの時点に至って盛岡藩が蜂起・派兵という事態の可能性が
少なくなったと判断したからである。...以下、省略。

 幕府を始め幕藩体制下の諸藩は、特に奥州・東北の各藩は、自らの藩にいつ何時蜂起の火の粉が降りかかるか、正に戦々恐々の体(てい)でいたのである。ここまで私は、シャクシャインの全ての同胞に蜂起を呼びかける檄(げき)は、「全島の...」或いは、「全道の...」という修飾語で同胞アイヌの心を捉えたと表現してきた。
 前に、礼文島のアイヌ蜂起の説明板に感慨を覚えた話をした所だが、檄は、南、津軽海峡を越えて封建諸侯の支配のもとで呻吟
(しんぎん=苦しみうめく)する、各地のアイヌ系住民の心をも掴(つか)み始めていたのである。
 歴史というものは、それを見る視点が何よりも大事なのだと、私は繰り返し強調し、注意喚起してきた。蜂起軍が、自らの死の危険をものともせず、倒れた同胞の骸(むくろ)を引き取り、手厚く埋葬したという事実は、アイヌ民族の心に育ち始めていたこういう精神性・同族意識の発現なのである。

 次回は、新谷行氏の登場を頂くことにしたい。   (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-25 16:19 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その31  通巻第153号

 前回紹介した書籍の著述者と書名が不正確だったので、改めて正しい形で紹介をし直したい。まず書名だが、吉川弘文館発行の
「街道の日本史」シリーズの第4巻、『下北・渡島と津軽海峡』が正確なものである。また、本書は共同著述であって、浪川氏の他に5名の企画編集委員が名を連ねており、浪川氏は編者とされている。この点を理解いただいた上で、この論述では「浪川氏の
著作によれば...」といった表記で進めることをお許し頂きたい。
 再び浪川氏らの著作を引用する。
...『雑書』では「松前犹蜂起ニ付様子承届、御注進可申上(もうしあぐべ)」きため(七月二十四日・二十五日条)、野辺地に桜庭
兵助(さくらば・へいすけ)を、田名部(たなぶ)へ嶋田与五右衛門(よごえもん)に上下一二人、同心ニ九人を派遣している。
 田名部・野辺地(のへじ)への派遣は「犹相替事無之ニ付(かわりごと・これなきにつき)、今日罷帰(まかり・かえる)」(閏十月六日、七日条)とあることから、領内の下北アイヌの監視をも兼ねていたと見ることもできる。
『松前蝦夷一揆聞書』(岩手県立図書館)では、蝦夷地の戦闘の推移によっては、海峡をわたって下北へ蜂起アイヌの勢力が及ぶことを恐れた様子が窺(うかが)われる。田名部・野辺地は、実質的な本州における第一線の防衛拠点となり、下北半島北半部が戦闘に巻き込まれることを念頭に置いた布陣が敷かれた。
 とくに七月十三日に野辺地と田名部に遣わされた藩士五人に対しては、「万事(野辺地)忠左衛門ニ相談」すべきことが申し渡されており、七戸城代(じょうだい)で寛文七年十二月に野辺地役物頭を兼帯した野辺地忠左衛門慶次(よしつぐ)が初期には総括し、
のちに桜庭兵助光英がその任に当たったと考えられる。...中略。...更に「戦略基地田名部」として以下のように続ける。
...戦略基地田名部
 田名部には寛文十三年に盛岡藩の代官所が設置されるが、寛永期から地方支配の一環として田名部古舘の菊池氏にニ五人を預け
「田名部惣郷支配」を命じるなどの在地の有力者を通じた支配が図られていた。菊池氏は松前通船五百石積ニ艘の御役御免を許可
されており、田名部の支配が松前交易に関する特権の賦与と一体となっていたことに注意する必要があるだろう。
そしてさらに、この蜂起を契機として田名部を蝦夷地への拠点として確立するための新たな地方支配の展開が所給人への村落支配層の取り込みによって図られた。それぞれ越前浪人、七戸浪人、志和浪人の系譜をもち、野辺地周辺に土着したものが、この蝦夷蜂起の際に「海上案内者」・「加勢御人数」とされ、野辺地給人として登用されたことが『参考諸家系図』によって知られる。
いずれも手作地方高にすれば三ないし五石と僅かではあるが、本来、田名部は総じて高をもつ百姓は見られず、肝煎(きもいり)さえようやく一石の内外といわれる土地である。そこでそれらが知行地とされた意味は大きく、寛文蝦夷蜂起を契機に所給人として
農村統治機構である代官所への出仕を行う士分集団として位置付けられたのである。次回は「蜂起の終息と盛岡藩」が語られる。


by atteruy21 | 2018-01-24 10:50 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その30  通巻第152号

 鉄砲の絶大な威力によっても、アイヌ民族の闘志は揺るがず、挫かれることはなかった。その不屈の誇りを支えた第二の理由は
「我らの戦いは、必ずや勝利するだろう」という見込みであり、「我らは今や力を増しつつある」という現状認識であった。
 こういう認識を保ち得るためには、対和人との関係で何らかの力関係の変化の兆(きざ)しが無ければならない。実は、歴史学者にも余り知られていない、或いは注目されずに見過ごされてきた、両民族間の動き・交渉の経過があったのである。
 ただ、その事実を示す前に、当時のアイヌ民族の心の在処(ありか)を探っておく、皆さんにも是非知って置いていただく必要があると私は思う。それが力関係の変化の兆しに大いに関わるものだからである。民族精神というものは、いったい何処に現れるのか、どのように己(おのれ)を表現するのか。やはり、ユーカラに眼を向けよう。
 
 阿弖流為について語り、その神話的表現である少年神「ポイヤウンペ」や「オキキリムイ」等について述べたとき、彼らは皆、
子どもであったり、子どもらしさを残した若者で、のちには民族を危機から救う者として民衆から待ち望まれるというモチーフを
共通に持っていること。そして幾多の戦いを経て、最後には敵中に美女を見出だし、これを妻として故国に凱旋(がいせん)すると
殆どのユーカラ・オイナは謡っているとも述べた。雄大な英雄叙事詩に美女が登場するのは、叙事詩と言われるものを持つ世界の民族の共通の傾向だなどと、妙に納得してはいけないのである。五百年千年と、民族が喜びと希望、時には苦悩の心を込めて歌い伝えるからには、それだけの切実な民族の心情が、訴えたい何者かが有る筈なのである。
 シャクシャインの事績には、敵中の美女の獲得に喩えられるに相応しい、民族の未来のかかった試みと行動があったのである。

 歴史・人類学研究者の浪川健治氏の著書に「下北・渡島と津軽海峡」があり、「寛文蝦夷蜂起と田名部」という項で、シャクシャインの蜂起に関連して「盛岡藩の動き」という項で次のような興味深い事実について述べておられる。
...内浦湾周辺は、アイコウインを首長とするアイヌ集団の支配下にあり、表面的には中立を装いながらも、戦局の推移によってはシャクシャインに呼応して松前へ攻め寄せる構えを示していた。盛岡藩は松前における蝦夷蜂起を知り、松前に藩士を遣わした。

( 以下、次回につづく )

by atteruy21 | 2018-01-23 19:09 | Trackback | Comments(0)

アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)その29  通巻第151号

 松前藩の支配体制の戦時に於ける脆弱性について述べた。では、平時においては藩の経済運営体制はしっかりした基盤を持っていたのだろうか。松前藩が、米の生産と年貢の確保という封建的権力を維持するための日常的機構を持たなかったことは、やはり藩にとっては最大の、致命的な弱点であった。百姓がまず米を生産し、藩の役人(武士)が庄屋層を指図して年貢を取り立て、その
米を商人を通じて流通機構に乗せ、藩の収入とするのである。
 この関係を安易に当たり前のこととして見過ごしてはならない。通常は、藩(武士)の百姓に対する無償の収益権(収奪権力)、
これが幕藩体制の支配力の源泉となるのだが、松前藩は米の生産と関わることが無かったため、この百姓に対する、領民に対する
無条件の支配権を持ち得なかった訳である。この無条件の支配権は、いったい何処から来るか、百姓・領民がこの無条件の収奪に反抗すれば百姓一揆などに発展するが、この場合、一藩で対応できなければ、幕府や他藩の鎮圧部隊の出動となる訳である。この辺りのことは白土三平の漫画「カムイ伝」などに迫力ある描写がされている。いざとなれば、全体としての武士階級と農民階級の
全面対決となるのである。
 
 卑近(ひきん)な話題で藩権力の弱点の解明を試みよう。松前藩では米の収奪の必要など無かったから、その仕事に当たる人員を
割(さ)く必要もまた無かった。役人を召し抱える手間と金が省けた訳である。松前藩が鎮圧部隊に藩士を配置できなかったのは、兵糧の確保の問題もさることながら、藩士そのものの絶対数が、もともと少なかったということが大きな理由の一つであった訳である。軍事的資源がもともと無かったと言い換えることもできよう。米を生産しない松前地での、米に替わる「富」と言うべきものは、いったい何だったか。知っての通り、それはアイヌの人々を通じての交易に対する観念上の支配権であった。松前藩の支配権力の構造は、米という現物を直接支配することで担保される他の藩のそれとは違って、自ら進んでか強制されて嫌々ながらかは別にして、アイヌの人々の暗黙の協力・理解なしには、実際に利益を手に入れる力として自動的には成立しないものであった。
 米というのは、力ずくででも、相手方から取り上げてしまえばそれだけの話である。しかし交易となると、無理矢理にアイヌを
引っ張って行って、それで山丹(さんたん)で蝦夷錦(えぞにしき=中国の官人服)と交換することはできない。アイヌ民族に対し、部分的にであれ、形の上だけであれ、自律性、自主性を認めなければ交易は成立しない。北東アジアにおいて早くから交易の民として知られ、交易に於ける相手方との信義を何よりも大切にする気風を養ってきたアイヌ民族にとって、松前藩の武士や交易から巨利を貪(むさぼ)らんと血眼(ちまなこ)になる和人商人の姿は、浅ましさこの上無いものに見えたのである。取り引きにおいて、アイヌ勘定と称して見え透いた数量の誤魔化しを行う和人たちを目にして、相手が愚かに見えこそすれ、決して畏敬すべき存在とアイヌが思うことは無かったのである。アイヌは、アイヌ軍は、和人を怖れてはいなかったのである。(次回につづく)

by atteruy21 | 2018-01-22 15:33 | Trackback(8) | Comments(0)