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通巻第219号 「たま」という言葉についてーその4

 アイヌ語「 ram,-u 」の言葉の意味を「心」だとか「思い」とかの精神面の作用を表す面だけに狭く限定してしまうと、本来の
この語の持っている活力、躍動性が損(そこ)なわれると私は考えている。「ラ ム (魂)」は確かに心性(しんせい)を表すのだが、その心や思いは、自身で完結するものでなくて、自分以外の物質的存在に強く依存するものである。心や魂は、人間の肉体に強い紐帯(ちゅうたい)を持っているということである。

 前にアイヌ民族の死生観について述べたことがある。世界の殆どの民族が、死というものを抽象的・観念的に魂が失われたものとしてのみ意識したのに対し、アイヌは死を「意識を失うこと」と客観的具体的に意識した。その定義は、「脳死」などを問題とする現代の医学的見地と殆ど変わることのない、先進的で科学的な認識を持っていたと言うことができよう。
 「意識を失う」という見方が科学的・具体的で、その一方、「魂が抜け出る」と見る事が、なぜ抽象的で非科学的と決めつけられるのか。何処が違うのかと疑問に思われる方が有るだろう。
 その違いは、意識というものを肉体の働きと関連付けて考えたか否(いな)か、という点に有る。やや抽象論になりそうなので、
アイヌ民族の風俗、民俗に題材を採って考えを進めよう。

 何か突然の出来事にビックリしたような時、アイヌの人々は思わず口元を押さえる動作をする。あっと驚いた拍子(ひょうし)に魂が口から飛び出さないようにする為だと言う。魂というのは、普段はしっかりと肉体にくっついているのだが、何らかの衝撃で剥がれたり抜け落ちたりするものなのだ。こういう考え方は、それと意識されずに現代の日本の人々にも受け継がれている。
 若い女性が、驚いてハッと口元を押さえる仕草は、少なくなったとは言え、今でも見かけることがある。遠い昔の、日本列島の住人が持っていた習俗を、それと知らずに受け継いでいるのである。

 肉体(の一部)から大切な何かが抜け落ちると、死や凶事が起こるというのは、日本列島の住人たちが永きにわたって保ち続けた重要な観念である。その大切な何かというのは、勿論「魂」のことなのだが、その魂というのは単なる抽象でなく、物質的な物に
根ざした概念であり、敢えて言えば「物体そのもの」を指すと言っても過言ではない。

 その物体とは何か。魂( ramat )をめぐるアイヌ語の表現を分析すると、それは見えてくる。「 sanpe (心臓)」がそれである。
   (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-31 12:52 | Trackback | Comments(0)

通巻第218号 「たま」という言葉についてーその3

 「たま」を魂(たましい)の意味に限定した場合、それに対応するアイヌ語は、仮に「 ramat 」という事にして論を進めたいと
説明した。ただ、この条件設定そのものが少し曖昧さを残すものであるので、正確を期して補足の説明を加えて置きたい。
 実は「 ramat 」という語は、一つの語ではなく「 ram 」の部分と「 at 」の部分からなる語句であって、敢えて文字化すれば
「 ram-at 」と表記すべきものなのである。その意味では、日本語(大和言葉)の「たま」の相手方( counterpart )のアイヌ語は
「ラ ム =ram 」だとすべきなのかも知れない。
 そもそも大和言葉の「魂(たましひ)」という言葉も、考えてみれば本来は霊魂を表す「たま」という語彙と、とりあえず意味は措(お)くとして、「しひ」という語との合成された語と見ることも出来る訳である。「たま+しひ」にしても「 ram + at 」にしても、このあと詳しく分析、追究して行くことになるが、先ず、全体としての「 ramat 」という一纏(まと)まりの言葉として俎上(そじょう=まな板の上)にのせたいと思う。

 「 ramat 」という言葉は、ram という言葉と at という語から成る。 ram という語は、名詞としては「心、思い」を意味し、
動詞としては語尾に「 U 」を加え ramu という形で他動詞「~を思う」という語彙になる。
 そこで、思い出して頂きたいことが有る。以前に『ヌチドゥタカラ=命こそ宝』命ということーその4で、この ramat について
以下のように述べているので、もう一度ご覧頂きたい。

....「ram,-u 心、思い」、「 ramu ~を思う」、「 ramat,-i 魂」などのアイヌ語の関連を詳しく見て行くと、ラ ム という語は
「頭に、脳髄に浮かぶ事柄の集合体、つまり『意識』というものに意味の中核部分があると考えられる訳である...以下省略。

 「 ram (思い)・ at (群れ立つ・集まる)・ i (もの)」、敢えて意訳すれば「記憶の総体=意識」さらにそういう意識をもった
人格を指すものと私は考える。「大和魂(やまとだましい)」という言葉があった。軍国日本の主導思想となり日本を破滅に導いた人間観であるが、魂というのは、それを奉じた集団の人間性をも意味したのである。

 この分析は、一つの見方ではある。しかし、「 ram 」という語彙は、「心や思い」だけを意味すると考えるのは、尚早であり偏狭でもあるのかも知れないのである。 ram を精神的な面での考えでなく、物質的な観点、具体的な物として捉える有力な語の解釈が有るのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-30 15:25 | Trackback | Comments(0)

通巻第217号 「たま」という言葉についてーその2

 日本語の「たま」とアイヌ語の「ラマッ」って、ホントに似ているって言えるの⁉、という疑問に先ず答えてみよう。日本語と
アイヌ語だけに眼を向けているうちは見えてこないので、英語の語彙と発音にご登場願って、そこにヒントを求めてみよう。
英語に於ける「 T 音 」と「 R 音 」の転換、交替の現象をご覧頂き、「た」と「ラ」が交替することの言語世界での普遍性に、納得を頂きたい訳である。

...「 not at all 」という慣用語句が有って、「全く~ない」を意味するのはご承知の通り。ただ、英語と言っても、英国風の発音も有ればアメリカ英語というのも有る。ここでは、語彙に違いが無くとも発音の差違が問題となる。音の転換、交替は米国風発音に著しい。発音記号を使っての説明では分かりにくいので、カタカナで表記をする。当然限界が有るのだが、英語を知らない人が、耳で聞いた音をそのまま書き記したというイメージで読んで頂きたい。

 英国風の発音では、「ノッタットーウ」と響き、T と R の転換現象は起こらない。一方、アメリカ英語だと「ナラロウル」と
子音・母音ともに、かなりの書かれた文字との乖離(かいり)が見られるが、ここで注目して頂きたいのは、 T 音に替わり R 音が前面に出ていることである。
 もう一つ、音韻変化の例をアメリカ英語に見てみよう。西部劇のワンシーンを思い浮かべて頂こう。悪党面をした男の似顔絵が
壁に貼られており、そこにこうある。「WANTED.DEAD OR ALIVE !」「ワニッ デドオアライ(ヴ)=お尋ね者、生死を問わず」と。
 なお、wanted の語尾の d と alive の語尾の ve は、殆ど聞き取れないほど弱く発音される。ここでは、 T 音が N 音に入れ替わっていることが識(し)られる。と言うより、実は T 音が消失したと見る方が正解なのかも知れない。同じ事はビートルズの
有名な歌の歌詞にも起こっている。「 I wanna hold your hand .」「お前の手をとりたい(と当時は訳された)。」という語句であるが、今ならば「君の手をとりたい」となるのだろう。俗語の「 wanna 」は、正式に言えば 「 want to 」になる所であり、
この語句の発音変化の秘密は、先ず、 want の t が、続く to との重複を避ける為に消失し、続いて、その to の語頭 のt が、R に置き換わったものだと私は見ている。「ワンタ」が「ワンナー →ワンナ→ワナ」に変わったのである。これも結局は 、T 音が
R 音に交替したものだった訳である。念のため、この歌詞を英語の解らない、しかし耳のいい人が聞いたままに書き取ったと想定してカタカナで表記すると、こうなるだろう。...「アワナホウジョウへン」。
 少し余計な回り道をしてしまったようだが、知ったかぶりが過ぎたのかと心を広くしてお許し頂きたい。次回は「 ramat 」の成り立ちからこの語彙を考えてみたい。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-29 11:58 | Trackback | Comments(0)

通巻第216号 「たま」という言葉についてーその1

 「モノ」という言葉のアイヌ語との関連について、私なりの考えを述べてきた。「モノ = 鬼」について述べたからには、その対句というべき「たま = 魂」という言葉に触れなくては、バランスがとれないと言うものだろう。
 語彙「モノ」の、アイヌ語との関連という文脈で考えを進めてきた訳だから、この「たま(魂)」という言葉についても、どんなアイヌ語と関連を持つのか。そのアイヌ語の、何処が大和言葉や沖縄方言(琉球語)に似ているのかを、先ず目の前に示すのが手順
というものだろう。

 大和言葉の「たま」は、守備範囲の非常に広い野球選手のようなもので、内野手なのか外野手なのか、ピッチャーなのかも知れないと言うくらいのスーパー・ヒーローなのである。そうは言っても守備位置を決めてやらなければ試合は始まらないから、仮に
対応する相手方( counterpart )の語彙を特定してやらなければなるまい。「たま」は、魂、給、玉、賜など漢字で書けば数えきれないほどの意味をもつ。恐らくは最も中核をなす語義は「魂(たましい)」であろうから、ここではアイヌ語の相手方も魂を表す「 ramat (ラマッ)」ということで論を進めたいと思う。

 大和言葉の「たま」が広い守備範囲を持つのと同様に、アイヌ語の「ラマッ」も、その成り立ちを含めて、縦横に他の語彙との繋がりが有り、「魂」も「ラマッ」も互いに意味のズレがあるのであって、もともと明確なカウンター・パートと位置付けるのは無理なのかも知れないということは、頭に入れておいて頂きたい。
 
 なお、「だいたい、『たま』と『ラマッ』という語は、音韻的に似ている言葉だと言えるのか」、と疑問に思っておられる方が有るかも知れない。しかし、ご心配には及ばないのである。「たま」と「ラマッ」は、その中間に仮に「だま」という語を置いて考えると、音韻的にはう繋がっていると見ることは可能なのである。アイヌ語と日本語に限らず、似た発音をもつ子音の相互の転換と言うのは、言語現象の中では常に起こる、言わば常識に属する事柄である。
 具体的に言うと、語頭の T 音、D 音、R 音は転換、交替することがよく有るのである。それは、発語する時の口蓋の形や舌の位置などが似ていることから、人間の頭脳にそれらの語が似通って認識されることによると考えられているのである。

 これから、この「たま、だま、ラマッ」を中心に、大和言葉やウチナーグチ、アイヌ語に至るまで様々な民俗事象や言語現象を
検討、考証して行く事になるが、脳ミソを柔らかくほぐして(認知症に非ず)、一緒に考えて頂きたい。  (次回につづく)


by atteruy21 | 2018-03-28 21:44 | Trackback | Comments(0)

通巻第215号 『モノ』という言葉についてーその27

 亡者(もうじゃ)という言葉が、昔は「まうじゃ」と表記され、その実際の発音は「まんじゃ」ないしは「まんざ」だったらしい
ことは何度も述べた。そこで気がかりな地名が念頭に浮かぶ。
...十数年前、家族四人で沖縄を訪れ、観光を楽しむとともに平和について考える機会をもった。「ひめゆり部隊」の悲しい話やガマという洞窟での住民の悲惨な運命を知るなど、戦争の愚かさを教えてくれる有益な旅だった。その一連の経験の中で特に強く印象に残った場所があった。
 沖縄本島中央部の西海岸、恩納村(おんなそん)に万座毛(まんざもう)という景勝地がある。第二次大戦最終盤、上陸した米軍に追い詰められ、一方、頼るべき日本軍からは逃げ込んだガマから追いたてられ、万事休した住民たちは万座毛の断崖から自ら身を投げて大勢の人が亡くなったと言うのである。

 万座毛は、海岸の洞窟状の奇岩の断崖の上が僅かに平地となり、そこに現在は芝生が覆っている景色のよい場所である。観光の案内板やガイドの人によれば、万座毛と言うのは、かつて琉球王が「万人が座するに足る」と言ったことが名前の由来だ、ということだった。
 その時は、そうなのかと思ったのだが、いま思い起こしてみると随分おかしな点が多いのである。先ず、「万座」だが、崖上の平坦な場所は、万人(御万人=うまんちゅ)が座するにしては狭すぎるのである。「毛(もう)」についても、「毛遊び」などが行われた場所だったと言った話もあったが、もし毛遊びが行われたような場所であれば、万人が「座する」とは言わない筈である。
「毛遊び(むうあしび)」というのは、大和言葉でいう「歌垣(うたがき)」の事で、若い男女が草原などに集まって交流する集いの事である。「毛(もう)」は確かに草原、野原の事であるから、「万座毛」が「大勢が集まる野原」を指すという考えは成立し得る
訳であるが、場所の広さの問題や「座する」という言葉を考えると、毛遊びに集まる野原という地名は、成立し得ないとの結論に到達せざるを得ないのである。

 結論に向かおう。「万座=まんざ」は、「亡者(まんざ=死者)の」を表し、「死者の野原」が「万座毛」の意味する所である。
既に述べたように、万座毛の周辺は海岸に並んだ洞窟群と、その前面に有る小さな島々から成る。恐らくは洞窟群と一体となって
葬送の地、風葬・草葬の地だったのだろう。海岸の洞窟は、沖縄の葬送儀礼に於ける風葬の場であったことはよく知られている。 同じことは、アイヌ民族の葬制・民俗にも見られる。海岸の洞窟は、あの世の入り口「 ahun ru paro 」とアイヌは考えていた
のである。     (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-27 19:23 | Trackback | Comments(0)

通巻第214号 『モノ』という言葉についてーその26

 『モノ』という大和言葉と、アイヌ語の『 -pe 』という語句は、一見しただけでは、互いに遠く離れた無関係の存在に見えるのだが、「語頭子音の可逆的交替」の原理を介在させるだけで、両語の直接の繋がりは、一気に見え易いものになるのである。
 直接的には、「もの、もん、まう、まん」と発音される語彙グループと、「ぼう、ばう、ばん」の音をもつ語群を比較してその
間の関係を明らかにする作業を行う事になる。少しの間だけ耳を傾けて頂きたい。

 「穏亡(おんぼう)」という言葉がある。「穏坊」とも表記され、江戸時代以降に生まれた比較的新しい語彙かも知れない。
 火葬場で死体を焼く職業の人を呼んだ呼称と辞典にある。従事する職業により人を差別する蔑称である。「亡」や「坊」という言葉は、「忌むべき人」を差していることは、前に述べた通りである。古くは「ばう」と表記され、実際の発音は、「ばん」か、ないしは「ぼん」だっただろうことも何度も述べてきた。

 もう一つ、「ばう」に関わる語彙を検証しよう。「泥棒(どろぼう)」という言葉がある。泥にも棒にも盗人(ぬすびと)に繋がる
意味はない。単なる宛字に過ぎないのはご承知の通り。「泥棒」という語は、かなり古い時代から使われていたもので、諸説有るうち、通説の「盗(と)らばや」ではなく、私は「盗らばう=盗む悪者」、特に強盗の類いの凶暴なものを指した言葉なのだと見ている。窃盗犯のようにコソコソしたイメージのものでなく、強盗を意味したと。それは、「ばう」という音(おん)が凶悪さを意味するものだからである。

 これは「べえ」や「っぺ」に、延(ひ)いてはアイヌ語の「 -pe 」に連なるものである。と同時に、音韻の交替により「ぼう・ぼん」を中間項として、「まう(もう)・もん(もの)」という趣(おもむき=味わい)の異なる新たな語群に展開して行く事になるのである。
 「亡者(もうじゃ=近代の発音)」という言葉は、古くは「ばうさ(ばんさ)」と読まれ、或いは「まうざ(まんざ)」に近い発音が
為され、そして『モノ = 鬼(死霊)』とも呼ばれたのではないだろうか。
 言葉の発音の実際の時系列的な順序は、この通りではないのかも知れないが、亡者という言葉は、全体としてこういった変化と発展の道筋を通って成立しただろう事だけは断言できると私は思うのである。

  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-26 11:59 | Trackback | Comments(0)

通巻第213号 『モノ』という言葉についてーその25

 和語の『モノ』と、ほぼ同義のアイヌ語の『 -p , -pe 』の関連について、多方面から追究を重ねてきた。そろそろこの主題を
終えようと思うのだが、終りに当たって最後っ屁(ぺ)のような暴論を持ち出して、皆さんにショックを与えたいと思う。
 『モノ』と『 -p , -pe 』の両語は、音韻的に余りにも遠く離れ、残念ながら直接の繋がりは論じ得ない所に有るというのが、今までの検証の結論だったと思う。「最後っぺのような暴論」と私が言うのは、実は、この両語彙の直接の繋がりを何とか見つけ出そうという、見込みも当てもない挑戦を試みるものだからである。

 アイヌ語の「 -pe 」が和語の「べ、べえ、っぺ」に繋がるのは誰にでも容易に理解ができよう。しかし、これが『モノ』や「衛門(もん)」に繋がるかとなると、多くの人の眼に問題外と写ってしまうのは、或る意味では当然の事である。現代語の範囲で
言葉を変化の相で捉えずに固定的に考えてしまうと、アイヌ語との関連はおろか、和語の範囲での「べ」と「もの(もん)」の関連すら見えては来ないだろう。
 和語のかな表記の歴史的特殊性(いわゆる「歴史的仮名遣い」のことではない)を思い起こして頂きたい。「ん」という字を表記しないなどの、あの表記の特殊性の事である。

...「亡者(もうじゃ)」という言葉がある。現代の若者の間ではほぼ死語になりつつあるが、「地獄の亡者」などの形で使われ、死んだ人や、その浮かばれぬ霊魂を指す。前に述べた「鬼(もの)」の中国語の元々の意味合いに略(ほぼ)重なる。
「亡」という字は、現代の日本語では「ぼう」と読む場合が多いが、昔は「まう」と読んだのである。だから「亡者」という語も
古語辞典では「まうじゃ」、又は「まうざ」の表記で登載されている。さらに古くは、「まんざ」と発音されていただろうと言うことは前に述べたが、しつこいのでこの辺で止めよう。
 中国語でも、時代により発音が大きく異なり、現代中国語では「亡」は「 wang ワン グ 」と発音するが、時代により、「bang (バング)」とか「 mang (マング)」と読まれていたことが知られている。
 上記のように、語彙の冒頭の子音が、中国においても日本でも、音韻変化することは稀ではない。特に、バ行の音とマ行の音が入れ替わりやすいのは、日本と中国に(恐らくはハングルにおいても)共通の顕著な特徴のようである。
 これが「もん(もの)」と「ぼん(ぼう)=べえ」を結ぶ道の糸口になるのである。

  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-25 14:12 | Trackback(283) | Comments(0)

通巻第212号 『モノ』という言葉についてーその24

 大和言葉においては、逆接語法を用いる際に『モノ』という言葉を別の言葉で置き換えたり、その語自体を避けたりする傾向があると述べた。では、アイヌ語の逆接語法にも同様の事象が有るのだろうか。知里幸惠さんの美しい詩編「アイヌ神謡集」から、その語法を取り上げてみよう。
...兎が自ら歌った謡(うた)「サンパヤテレケ」から
 tanto suy paye-as wa ingar-as awa ,sennekasuy siran kuni ci-ramu a-i
 この日また 行って 見たら   そんなこととは 思いもしなかった のに
  yupinekur kuorokus wa rayaiyayse koran .
 兄様が 仕掛け弓にかかって 泣き叫んでいる

 逆接語法は、「 ci-ramu a-i 」の部分である。分離先行の否定語のsennekasuy (まさか~ない)が、ramu( 思う)にかかって、先ず、「まさか思わない」が導かれ、それに過去形を表す a (した)が付いて全体として「思いもしなかった」という意味になる訳である。そしてそこに逆接の「 i (ものを)」が加えられ、最終的に、そんなこととは「思いもしなかったのに」という構文が
出来上がるのである。「 -p , -pe 」に代りほぼ同一の意味をもつ「 -i 」の語が置かれる訳である。

もう一つ、同じ神謡集の「梟の神の自ら歌った謡」から
...acikarata wenkur hekaci toan cikappo kamuy cikappo a-okaiutar a-kor konkaniay  ka somouk     ko ,
 けがらわしや 貧乏人の子 あの鳥  神様の鳥は   私たちの    金の小矢でも お取りにならない ものを

 逆接の箇所は、「 ka somouk (  ) ko , 」の所である。空欄に「 -pe 」が本来入る所なのである。何故それが言えるのか、
その直後に「 ko =(~に対して)が付くからである。「取らないもの・なのに」の省略された姿なのである。
この物語は、このあと貧乏人の子のただの木の矢に梟は射落とされるのだが、鳥が矢に射落とされるのは、鳥が自ら進んで、矢を
受けとるのだとアイヌの人々は考えたのである。
 梟の神が、木の矢など受けとる筈がないのにと、普通は考えるのに、カムイは敢えて、意外にも貧乏人の子の腐れ木の矢を受け取ったのである。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-24 11:03 | Trackback | Comments(0)

通巻第211号 『モノ』という言葉についてーその23

 『モノ』という言葉を逆接語法として使う場合、その語形は普通「ものを」ないしは「ものに(のに)」という姿をとる。しかし時には、この『モノ』という言葉が省略されて文中に現れない事もある。この隠れた『モノ』の好例が短い文中に纏(まと)まって顔を出す書物があるのでお目にかけよう。あの有名な【竹取物語】の一節である。少し長くなるがお読み頂きたい。
...【竹取物語】 
 立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず。飛車(とぶくるま)一つ具(ぐ)したり。羅蓋(らがい)さしたり。その中に
王(わう)とおぼしき人、家に、「宮つこまろ、まうで来(こ)」と言ふに、猛く思ひつる宮つこまろも、物に酔(ゑ)ひたる心地して
うつ伏しに伏せり。いはく、「汝、おさなき人、いささかなる功徳(くどく)を翁(おきな)つくりけるによりて、汝が助けにとて、
かた時のほどとて下ししを、そこらの年頃、そこらの金(こがね)給ひて、身をかへたるがごと成りにたり。かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤(いや)しきをのれがもとに、しばしおはしつる也。罪の限(かぎり)果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く、能(あた)はぬ事也。...以下、省略。
 
 逆接語法の箇所がお分かりになっただろうか。
...「かた時のほどとて下しし(  )を...」の所である。「下しし」のあとの空白(ブランク)に「もの」が入るのである。
 「ほんの少しの間だけ、お前(竹取の翁)の所に(かぐや姫を)与えてやったのに...」という逆接である。
 「下しし」と言うのは、「下した」の連体形で、あとに名詞(体言)を伴わなければならないのだが、その体言「もの」を自明の
こととして、ここでは省いているのである。
...「罪の限果てぬれば、かく迎ふる(  )を、...」 空欄には勿論、「もの」が入るのである。
 かぐや姫の「罪の償いの期間が終わったから、このように迎えに来たのに...」と、天人は、翁が道理を弁(わきま)えずに姫の
昇天に嘆き逆らうことをたしなめている訳である。

 『モノ』という語彙が姿をは、自明の事だから省略されていると私は説明したが、この事は言葉を省略した事の主な理由として確かな事ではあるのだが、どうもそれだけではないように私には思われる。一種の忌み言葉として、この『モノ』という言葉を口にすることさえ、文字にする事さえ憚(はばか)ったと言った意味も有ったと私は考えている。
 同様の表現の仕方は、アイヌ語にも有るのだろうか。「 -p ,-pe 」に代えて別の言葉を使い、或いは、言葉そのものを避ける
語法が有るのか、それが次の課題になる。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-23 12:46 | Trackback | Comments(0)

通巻第210号 『モノ』という言葉についてーその22

 「もの」という日本語の語彙と、「-p , -pe 」というアイヌ語の語句が、共通してもつ中心的語義(概念)というのは、「人の意識の外に黙って存在する」ということだろう。この語の醸(かも)しだす感覚が、例えば古い時代の支配者層をして、民衆というものは「モノは言わぬ、されど我らの思い通りにも決してなることもない不気味な存在」と、見させることになる訳である。
 『人の意に従わぬ』という意味が、「もの」や「 -p,-pe 」の表す主たる概念として、人々の意識の中に堂々と位置を占めたと言うのは、生産関係の複雑化、利害対立の日常化が進み始めた社会においては一種の必然であった。階級対立が先鋭化した平安の日本社会においては、それはなおさらの事であった。
 人間の間に利害対立がある限り、社会は、力があり支配する側と、これに従うか反抗する人間に分裂し、その間に結ばれる人間関係が必ず存在する。そこに「逆接語法」が発達する基盤が生まれる訳なのだが、逆接語法の説明に当たっては日本社会に焦点を当てた方が分かりやすいので、奈良・平安時代の日本をイメージしつつ「逆接」を論じたい。勿論、アイヌ語と対比させて。

 ...朝寝髮 われは梳(けづ)らじ 愛(うつく)しき 君が手枕(たまくら) 触れてしものを (二五七八 巻十一)
  現代語訳... 「この朝明け、私は乱れたこの髮を櫛でとかそうとは思わないわ。だって、あのいとしいかたの手枕が触れたこの髮なんですもの。」(集英社文庫「清川妙の万葉集」より)
 ...我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを  (一〇八 巻二)
 ...「あら、私を待ってあなたがお濡れになったという、その山の雫(しずく)になりたいものですわ。だって、恋しいかたの
お身に触れたんですもの。山の雫がうらやましいわ。」(同上書より)

 いずれの場合も、普通の「人の思いに反する」状況を歌っているか、現在の事実とは反する状況を嘆いているのである。

 アイヌ語では、どんな逆接が使われているだろうか。知里真志保氏のアイヌ民譚集(みんたんしゅう)から
... toy Pananpe wen Pananpe,hoski tasi a-ki kusu-ne-p e-i-yetusmak...
 「にくいパナンペ悪いパナンペ、先に俺がやろうとしたのに、出し抜きやがって...」となる。
「 a-ki kusune-p 」とは、「 a 俺が ki し kusune ようとした p もの(を)」という意味である。知里博士は「 -p 」を
ここでは「~のに」と訳しておられるが、これは前述したように「ものに」と解釈された訳で、正しい。「ものを」と訳しても
勿論、差し支えないものである。   (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-03-22 11:45 | Trackback | Comments(0)