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生産活動に見る縄文と弥生ー40 (通巻第391号)
 naye などという語彙は、現在のアイヌ語には認められていない。こういう形の言葉が昔は有ったのではないかと、素人の私が勝手に想定しているだけの話である。ただ、やみくもに自説を捲(まく)し立てている訳ではなく、素人には素人なりの「論理」というものが有るのである。

▽ nay という語彙について中川辞典を覗いてみよう。
...ナイ nay 【名】①沢 ; 〈参照〉ペッ pet  ②沢のように筋となって流れる流れ。
 この②の「筋となって...」という位置付けに留意しておいて頂きたい。これが語意の中核となるからである。
▲ 次に、関連をもった語彙に注目して、この nay(e) の原意の捉え方の補足説明をして置こう。
...ナイパ naypa 【動2】(棒で引っ掻いたりして)~に筋をつける。
 中川氏は、ナイの原意を「筋をつける」と捉えている。基本的に私も賛成である。ただ、私の場合には、少し意味がずれて、「線状をなす・線になる」を充てたい。それは何故かと言うと...。

 大和言葉に絡めて考えを進めよう。「縄を綯(な)う」という語句がある。想定した naye という言葉と、自動詞と他動詞の違いの問題は有っても、この綯う(なう)という語彙は、藁(わら)などの短いものを、縒り合わせて長い紐状のものや線状のものを造ることを意味する。
▽「線状を成す」という言葉で、古い大和言葉に参考となる語彙が有る。それは「ね」という言葉である。結論を先に述べると、
「山の尾根」などに使われる「根」という言葉である。この「根(ね)」は、ナイと同様、線状のものを意味する。そうは言っても
「ナイ」と「ね」では、音(おん)も違うし意味内容も全く違うではないかと疑問に思われる方が殆どだろう。
...ちょっと東北弁のお世話になろう。秋田県だったかの地名に「小保内(おぼない)」というのが有る。アイヌ語に詳しい方なら推察できるのだが、この地名(川の名)はアイヌ語の「 Ooho-nay オオホナイ (水深の)深い川 」という語が原名である。
 ただし、この秋田の地名を文字通りの「おぼない」と読んでしまうと、真の姿が見えなくなってしまう。地元の人たちは東北の訛(なま)りで、「オボネ」と発音するのであって、「おぼない」では地元の人間の理解を得るのは「おぼつかない」のである。
 敢えて補足をすると、この「ナイ」を「ネ」と発音する癖は何も東北人に限らず何処にでもある現象で、かの都会人の江戸っ子だって「知らない」を「知らねえ ! 」と啖呵(たんか)を切っていたのである。
▼ 「尾根」という言葉の意味を考えよう。「尾根」と言うのは山の稜線(りょうせん)のことを言うのは、登山愛好家でなくとも知っておられるだろう。山の上からみた登山道などの「線」のことである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-30 10:48 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー39 (通巻第390号)

 川の名を幾つか取り上げて来た。どれも、何らかの形でその川の特徴を表す名であることがお分かり頂けたものと思う。さて、
川の名を考えたついでに、では最後に、その「川」という言葉のそもそもの成り立ちというものを考えてみよう。
 大和言葉の「かわ(川)」という言葉はいったい何に由来するのか。そんなこと考えたことも無いよ、という方が殆どだろう。というより、まず考えた人など居ないだろう。言語学者・国語学者でもないズブの素人の私が、特定の語彙の成り立ちや謂れを論じようとすること自体おこがましいのだが、例によって、ここは騙されたと思って聴いて頂きたいのである。

▽ 行く川の流れは絶えずして...有名な古典文学作品の出だしの句だが、実は、この語句に既にヒントが隠されているのである。
 川や湖、沼など美しい水辺の風景に恵まれた日本列島は、そこに住む人々に、四季のうつろいを感じとる繊細な感性を与えてくれた。偉大な大自然の様々な在りように古人はどのような名付けをしたのだろう。川と湖と沼と、それぞれの在りようの特徴は、いったい何処に在るか。
...一つの際立つ特徴は、それらの水面に有る動きの有無にある。湖や沼は、静止した水面を持つ。その一方で、川というのは、常に水が流れている。...「淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためし無し」と言うように、川の水は常に入れ替わっている、それが「かわ」の古くからの語意なのである。

 さて、肝心のアイヌ語の川の成り立ちについて考える問題に戻ろう。アイヌ語では、日本語の川に該たる言葉に二つ有る。その一つはご承知の通り「 pet 」であり、これは水の集まり( pe-ot )、大水(たいすい)を表し大きな川のことであると言うことは、少し前の回で紹介した知里真志保博士の述べられた通りである。
▽ nay というアイヌ語が有る。普通、「沢(さわ)」と訳され、「 pet 」よりも少し小ぶりな川を指すとされる。そういう分類もあながち誤りとは言えないと思うのだが、私は川の規模の大小ではなく、流れの在りようにアイヌの古人は注目して別の呼び方で区別をしたのではないかと考えている。日本語の「沢・さわ」という語彙の示す、谷間などを縫って流れるような小さな流れで、それが綯(な)い合わさって、少しずつ太い流れに成長して、終(つい)には「 pet 川 」に成るのだと。

▲ もうお気付きだろう。 nay は、日本語の縒(よ)り合わせる、綯(な)い合わせるという言葉にも通じる、アイヌ語として私が復原した「 naye 」という動詞に名詞化辞( -i )を付けた「 naye-i 縒り合わさった・もの 」という意味である。...と私は考えているのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-29 12:00 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー38 (通巻第389号)

 川は生き物である。アイヌの先人たちは、そう考えていた。だから動物と同じように雄と雌で交接して子も産むし、人間と同じように喧嘩して夫婦別れをすることもあると。動物や人間にも、いろんな性格の違いをもったものが有るから、それぞれの性格に応じてそれに見合った名を付けた訳である。或る川には「いつも不機嫌で暴れ回るもの」と名付け、別の川には「いつも朗らかに野原で遊んでいる川」などと、その川の在りように着眼した名付けがされたのであろう。

▽ Masar-ka-oma-p 「浜の草原・の上・にある・者」
  O-ranko-us-i 「川尻・桂の木が・そこに群生している・もの」「川尻に桂の木が群生しているもの」
  O-tatnitay-oma-p (オタッニタヨマプ)「川尻・かばの林が・そこにある・もの」「川尻に樺の林があるもの」
▲ pet 「川」+ e 「そこで」+ u 「おたがい」+ ko 「に」+ hopi 「捨てる」+ i 「所」 →  Peteukopi (ペテウコピ)
 「川がそこで左右に別れ合う所」「川俣」  
 この川の名は、少し説明が必要だろう。日本語の発想では、川が流れてきてそこで別れ合うと言うと、川が下流に向かって分岐して二つの川になって流れて行くと、そういう風景を思い浮かべるのが普通である。しかし、実際の川の姿は、流れてきた二つの川が、ここで合流して一本の川になるところ、つまり川の「落ち合い」の場所を示しているのである。
 これはアイヌ語と日本語の発想で、川を捉える視点が違うところにその原因が有るのである。アイヌの先人は、川というものは
川口(普通は海)から山の奥の方へ登って行く生き物であると考えていた。一方、日本語の発想では、川はいつも水の流れに従って上流から下流へとくだって行くものである。
 だから、日本語の発想では、川がお互いに捨て合って別れて行くと言うのは、一本の川が二本の川に別れて流れ下って行くというイメージになるのに対し、アイヌ語の発想では、逆に一本で遡っていた川が、二本の川に別れてさらに山奥の方へ登って行くのだと、そう見る訳である。

▽ Oohopet-kasu-usi 「オオホペッ川(を)・渡る・所」(オオホペッカスシ)《ホロベツの地名》

▽ O-siran-ne-p オシランネプ O 「川口(が)+ sirar 「磯」+ ne 「になっている」+ -p 「もの」
 キタミ国モンベツ郡の川の名。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-28 13:28 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー37 (通巻第388号)

 敬意を払うべき相手か、それとも少し馬鹿にした気持ちで呼ぶ事のできる相手かによって、プやペが付くか、それともイが付くのかが決まると述べた。その舌の根も乾かぬうちに、例として出した二つの川の名に矛盾する事態が起こっている。注意力の有る方ならば直ぐに気が付かれただろう。
▽ O-takuppa-us-i (そこに・谷地坊主・群在する・者)と、敬意や恐れを表す名(語尾)を付けるその一方で、
▲ Nitat-or-un-pe (谷地・の処・にいる・者)と、こちらは親しみや少し馬鹿にした感覚を表す名を付ける。
...ともに谷地や谷地にいる化け物、つまり恐ろしい筈の者・場所を指す名前でありながら、なぜ語尾の接辞が異なるのか。その事の説明が付かなければ、分類の見方が正しくはないのだと言うことになるだろう。

 谷地の魔神(ニタトルンペ)について説明すれば分かり易いだろう。「谷地の魔神」は以前にも紹介したことがあるが、知里幸惠さんの「アイヌ神謡集」に出てくる湿地に住む魔神である。「湿地」と言っても、単に沼地のような所だと思ってしまうと、この魔神の本当の恐ろしさは理解できないのである。「 nitat 」と言うのは、場所の呼称で、湿地帯の中で、沼の水面を植物の根や水茎が絡み合って覆ってしまって、ちょっと見ると、その上を歩いて通れそうな場所がある。そんな場所を「 nit ニッ 」というのだが、歩いて通れそうに見えても実際に人が通れば、足がズブッと抜け(この「抜ける」が nit である)て、沼に落ち込んでしまう訳である。通った人、取り分け子どもたちは溺れて死んだりする恐ろしい場所なのである。その「 nit 」が幾つも集まった
処を、 nit-at-oro 泥沼と呼ぶのである。だから、谷地の魔神と言うと分かりにくいので、本当は『泥沼の魔』と訳した方が良いのかも知れない。

 だが、実は、この神謡集の魔神は、何処となく間が抜けており、英雄のオキキリムイにあっさり退治されてしまう、ある意味で『泥沼の魔』の名にふさわしからぬ、愛すべきドジな化け物なのである。だからこそ、恐ろしい筈の化け物の名に、「 -i 」ではなく「 -pe 」が付き、《泥沼の処にいる奴(やつ)》と呼ばれたのである。

 川の名は、なんと言っても多数派は「~ナイ」や「~ペッ」である。まれに川の人間味を帯びた特徴に注目して「~する者」として「 プ 」やら「 ペ 」、もしくは「 イ 」が選ばれるのである。もう一つ二つ、これらの接尾辞の付く川の名を紹介したいと思うのだが、今回は紙数が無くなったので次回に回すしかなくなったようだ。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-27 11:50 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー36 (通巻第387号)
 アイヌ語で「~する者」とか「~する所」などを表す語法には、「~ -p 」や「~ -pe 」が有り、「~ -i 」でも同じ意味を表すということについて長々と論じてきた。そして、その「 -p 」や「 -pe 」の語句を用いる場合と、「 -i 」を使う場合に、その使い分けに一定のルール、基準が有りそうだという所まで明らかに出来たと自負している。
 そこで、この基準についてもう少し知里真志保氏の「アイヌ語入門」から幾つかの川の名(地名にもなる)を取り出して、基準の明確化を図ってみたい。
 一言で言えば、それは敬意を含む呼び名か否かだと言うことに尽きる、そう私は思っている。「 -p ,-pe 」は愛すべき相手、或いは親しみを込め、時には蔑みを含んだ感情を持つ対象について用い、もう一方の「 -i 」の方は、一定の敬意を含み、或いは
恐れや、場合によっては嫌悪を感じる対象を指す場合に用いるのだと。
 具体的に「アイヌ語入門」の記述を逐(お)って考えてみよう。
 ▽ Has-inaw-us-i (ハシナウシ) 登別にある地名(祈りをする場所)
has-inaw 枝幣(えだぬさ) us-i (群立する・所) イナウを立ててカムイに祈る場所である。

...藤本英夫氏の著書「知里真志保の生涯」の最終章に私が感銘を受けた文章が有る。
 ▲「ハシナウシの丘に」
 (金田一)博士の死後、知里幸惠の墓は、金田一春彦氏のはからいにより、彼女の故郷、登別のハシナウシの丘にある知里家の
 墓地に改葬された。改葬のとき、幸惠の頭のあたりにあった、べっ甲の櫛の色がきれいだった。昭和五十年秋のことである。
  墓碑の形は、妹のミサオさんの心尽くしから、雑司が谷霊園にあったのと同じに作られ、十字架を形どった伯母マツの墓に
 並んで、すぐ横に安置された。

 ▽ O-takuppa-us-i オタクプパウシ (川の名)
  o-(そこに) takuppa (谷地坊主) us (群在する) -i (者)と知里氏は分析している。
 (私の注釈) 「 o- 」を「そこに」と訳すと、ちょっと分かりにくいかも知れない。アイヌ語地名には、体の部位を表す語の
 要素が多いのだが、実は、この「 o- 」は、「あそこに=陰部に」と分かりやすく訳してやった方が良い場合が多いのである。
  陰部(川口のこと)の所が、足がズブッと抜けて泥沼に落ち込んでしまうような沼地の危険な場所を谷地坊主と呼ぶのである。
 別の言葉では、「 nit 」とか「 nitat 」という。nitat-or-un-pe 谷地の魔神は神謡集に出てくるが、takuppa も危険な場所なので、 -pe が付かず、 -i が接尾する訳である。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-24 00:18 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー35 (通巻第386号)
 知里幸惠さんのアイヌ神謡集の物語に、 nupur という語の意味を正しく捉える上での重要なヒントになる文章が有る。

...小狼の神が自ら歌った謡「ホテナオ」より抜粋
 tan hekaci wen hekaci e-iki ciki,tan esanot teeta rehe tane rehe ukaepita e-ki kusunena ! ‘’
この小僧め悪い小僧め、そんな事をするなら、この岬の昔の名と今の名を言い解いて見ろ ! 」、
Hawas ciki ci-emina kor itak-as hawe ene okay :ー
私は聞いて 笑いながら いうことにはー
‘’Nennamora tan esanot teeta rehe tane rehe erampewteka ! Teeta anak sinnupur kusu Tapan esanot‘Kamuyesanot’ari
 「  誰が この岬の 昔の名と今の名を 知らないものか ! 昔は 偉い神様や人間がおったから この岬を『神の岬』と
a-yea korka , tane anakne sirpan kusu ‘Inawesanot ’ari a-ye ruwe tasi anne ! :ー
   言ったものだが、今は 時代が衰えたから 『御幣の岬』と 呼んでいるのさ ! 」

 古い時代のアイヌの世界観と、現代の日本人の宗教観・言葉遣いの間の溝は極めて大きく、シンヌプル と シルパンの訳し分けに知里幸惠さんがどれほど苦労されたのかが偲(しの)ばれる。
 ▽ シンヌプル の「 シン 」も、「 シルパン 」の「 シル 」も、元は同じ「 sir 」で、ともに「辺りの様子が...」とか「山や川の見た目の色合いが...」という意味であり、例えば「 sirnupur 」では山から湧き立つ靄や雲が濃く深く立ち込め、川の場合は川霧や河水の白さが濃いことを言うのである。一方の「 sirpan 」では、それらの色合いや濃度が薄くなり、消え入りそうになっていると、神謡集ではそう表現して山や川の霊力が弱まってしまったと言っている訳である。

 ▲ 念のため、「 pan 」の意味を中川辞典で確認させて頂こう。
...パン pan 【動1】(姿が)消滅する。(色が)薄い。(程度が)弱い。
(例文) hunak un ka kuri pan wa oar isam どこかへ姿を消して、影も形もなくなってしまった...とある。
《注意! 》最近になってこのブログをご覧になった方へ!  上の例文を見て「色が薄い」という形容詞が動詞の扱いを受けていることに疑問を感じた方はおられないだろうか。尤もな疑問なのだが、アイヌ語では動詞と形容詞を区別しないという独特の文法が有るのである。このブログの一番始めにその事を説明してあるので、興味の有る方は覗いて頂きたい。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-23 17:24 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー34 (通巻第385号)
 第2号証を言葉の法廷に提出するに当たり、実物を見ていただく前に、裁判員の皆さんに先ず2号証の証拠たる所以(ゆえん)をお示しして置くのが筋というものだろう。
 ▽ 古代アイヌの人々は、巫力とか霊力とか言うものに就いて、いったいどのような観念を抱いていたのかを知っておくことが先ず何よりも肝要だ。そう、私は思っている。その一端を垣間見せてくれるのが、アイヌ民族に伝わる古い語りもののユーカラである。世界の三大叙事詩の一つであると金田一京助博士が指摘したアイヌの英雄のユカラには、大空を思うがままに飛び交う半神半人の英雄たちが活躍し、押し寄せる外国人(とつくにびと= repunkur )と戦い、美女を巡って英雄同士が相争う。
 一方、ユカラに登場する女性たちも、皆、超能力を示し、病(やまい)を癒し未来を予見する力( tusu トゥス )を持つ。敵を呪い殺す呪力さえ、必要ならば用いたので、人々から大いに恐れられたのである。

 ▲ 現代人の眼からは、他愛もない迷信にしか思えないものでも、古代の人々の信仰心はこれを真実と信じさせたのである。
 既に述べたように、霊力ある英雄や美女は、身の周りに濃い靄や霧を漂わせて、常人の眼からはその姿は見えないと考えられていた。ユカラの英雄譚(えいゆうたん=英雄の物語)で大活躍する少年英雄のポイヤウンペ Ponyaunpe も、度々、敵や味方の英雄の来訪を受ける。神である英雄は、轟音をとどろかせて空から降り立ち、少年英雄の手前の所に、黒々とした、或いは白く濃い靄の小山となって立ち現れる。少年英雄は、その眼の力で、纏わりつく靄を必死で振り払い吹き払って、来訪したカムイの姿を見極めようとするが、なかなかそれも出来ない...と。こういう件(くだり)がよく語られる。

 ...信じがたい話かも知れないが、古代の人々の眼には尊い貴人や英雄の姿は、実際に見えなくなっていたのである。白い靄に覆われ、或いは輝く後光に遮(さえぎ)られて、古代人の眼には、人の姿が写らなくなるのだ。恐ろしい相手や心服する人物からの強い暗示にかかった人の眼は、見えるべきものが見えなくなり、見えない筈のものが見えるようになるのである。
 こうした心理学的に説明の出来る事柄の外(ほか)に、現代人にも理解が可能な「人の姿が見えなくなる」、或いは人を正面から見ることができなくなる、そういう心理状態が生じることがあるので、参考までに説明しよう。
 ...若い男性が、見たこともないような飛びきりの美しい女性に出逢って、何と、その女性が微笑みを含んだ眼差しで、じっとこちらを見たと想像して欲しい。恥ずかしくてか、女神のような女性の美しさに気後れ(きおくれ)してか、若い男性は、思わず
眼を逸(そ)らし、ドギマギして女性を正面から見据えることができなかった。そんな経験を、男性なら一度や二度はしているかも知れない。
 白い靄を身の周りに漂わせる、この感覚が大きなヒントになるのである。いよいよ2号証の登場である。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-22 10:23 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー33 (通巻第384号)

《 nupur-pet 》という語句は、最初から「巫力の強い川」という意味で呼ばれ始めたのだろうか。それとも、「白く濁った川」という意味が元々の命名の由来なのか、その辺の事情を確認することは果たして可能なのだろうか。アイヌ語の研究者の人たちはどのような考えを「 nupur 」と言う語に就いて持っておられるのだろうか。著名なアイヌ語学者の中川裕氏に見解を求めよう。
...ヌプル nupur 【動1】巫力が強い。
 ▽ a=kor sapo tu nupur hussa re nupur hussa arukaykire  姉は強力なフッサ(治癒の息)を何度も吹きかけた
 中川氏は、ヌプル に「巫力の強い」の意味を充てておられる。「白濁した」などという観念は、氏の思考の中に入り込む余地も無さそうだ。しかし、この「巫力の強い」という観念が、いったい何処から生まれるのか、そこに眼を向けないと、「巫の力」=「霊力」そのものの意味さえ理解できないという事態に陥るのである。

 アイヌの先人は、巫力や霊力を眼に見えない空中の存在に止(とど)めず、何か、眼に見え音に聴き、肌で感じ取れる、ハッキリした実体を伴うものと見ていたようである。具体的に言おう。高い山は神々しく神秘な力をもつ存在である。山は、雲を湧き上がらせ、雨を降らし、風を巻き起こして聖地を侵す人間どもを脅かす。巫力と言うのは、恐らくこういった自然の猛威に対する古代人の恐れや、自然の大いなる力に対する憧れが、その観念の根底に横たわっていたに違いない。「白いものを吐き出す」、「雲を湧き上がらせる」、それが自然の猛威(つまり、霊力)の発露であり徴(しるし)であったのだ。

▲私は、自然に対する恐れが、古代人の脳裡(のうり)に聖性やら呪力やらの観念を造り出したと考える。「 Nupurpet 」に即して
言えば、川霧か川の濁りかは問わないとして、「白いものを出す・川」、これが原意であり、白いものを出すものは当然、巫力の強いものだということになる。これが登別の命名の由来であり、経緯(いきさつ)なのだと私は思う。

...▽ Nupurpet ヌプルペッの由来が視覚的なものだという証拠を、もう一つ2号証として提出しよう。それは知里幸惠さんの名作
アイヌ神謡集の「小狼の神が自ら歌った謡・ホテナオ」という作品に出てくる一連の語句・文章である。

 「 sir-nupur 神の力の強かった(時代)」と、「 sir-pan 神の力の衰えた(時代)」の対比の中で物語が紡(つむ)がれるのだが、
詳細は次回の楽しみにして頂こう。「色の濃い」= nupur と「色の薄い」= pan の意味の対比に「 nupur 」という言葉の秘密が
隠されているのだと予告だけしておこう。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-21 13:45 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー32 (通巻第383号)
 「登別」の語意の解明の前に、やはり「 nupur 」の表すものを確認して置くことが必要だろう。このブログの始めの頃に取り上げた《アイヌ民譚集》の解説記事に、「 nupur 」の意味を簡潔にまとめた記述が有るので、改めて登載したい。

▽「 nupur 」という言葉は、巫力(ふりょく)、霊力、呪力などと訳される神秘的な力を指す語彙であるが、もともとは「白いものを出す」という意味であった。
 アイヌは、日本人と同じく高い山などに神格を認め、山の麓から雲や霧が湧き上がるのを眺めて、霊力の徴(しるし)と考えた。
また、大河に川霧が発生したり、河水そのものが白く濁るのを見て sirnupur (シンヌプル)=「霊力がある・神々しい」と考えた。
 この「 nupur 」は、偉大な自然やカムイたちに限らず、人間に於いても英雄やとびきりの美女は、白い靄(もや)を身の周りに漂わせて、凡人の眼からは見えなくなると考えられていたのである。
 以下は、《ユーカラ集Ⅱ・ Poro Oyna (大伝)第二段「発端」》の一節である。
...sapo topochi ine kotan ta ine moshit ta    姉神は どこの村に どこの国に
eturbak shirika eturbak nanka okay nankor-a   こんな美しい容貌 こんな立派な顔容(かんばせ)があるのか
 imeru kusu urar kusu anukar boka ewen kane...  光のため靄のゆえに われ見ることさえできない...
[金田一京助氏の脚注] 
 偉い人は、その体に靄がかかっていて見えないと叙(じょ)するのが常套であるが、ここは光と靄のためと叙している。

▲この考え方は、日本の民俗的思想にも残っており、神道においては、神は白い靄に包まれ、その姿は人の眼からは見えないと考えられていた。なお、 nupuri 「山」という言葉は、この「白いものを纏(まと)う者」という意味なのである。麓から雲を生むほどの高い山でなければ、「ヌプリ」とは言わない訳である。

 また、Nupurpet という地名がある。登別の原名で、「濁り川」と訳されるが、これも「霊力のある川」というのが本来の意味なのだろう。...以下、省略。

...この記事を書いた当時は、このように私も考えていた。およそ一年が経って、今の私はもう少し厳密な意味の捉え方が出来るようになったと考えている。巫力の強い川が先か、濁り川が先か、順序が逆だったと考えられるのである。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-20 10:25 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー31 (通巻第382号)

 古代のアイヌの人たちは、山や川を生き物だと考えていた。だから、人間と同様に、山や川は恋をして、子を生んで、怒ったり笑ったりしながら日々を暮らすものだと考えていたのである。これは勿論、アイヌだけでなく、大和の人々の考えでもあった事は今に残る色々な習俗から明らかなことである。

 アイヌ古人にとって、山や川は生き物であり神でもあった。それぞれの山や川には別々の個性があり、その性格に対して恐れや親しみ、その他、種々の感情を表す命名がされたのは、ごく自然な成り行きだろう。曰(いわ)く、「いつも怒って火を噴いているもの=火山の名」、或いは「いつも草原でイチャイチャしている奴(やつ)=川の名」などなど。その対象にアイヌがどういう感情を抱くかによって、「~する者」を表す接尾語も、或いは「 -i 」が撰ばれ、別のものでは「 -p 」や「 -pe 」が付けられたのである。

...アイヌ語で言う「山」という言葉に就いて考えてみよう。アイヌ語の山は二つ言い方が有って、一つは「 kim,ke 」で場所を表す位置詞(いちし)とされている。例えば、熊のことを「 kim-un kamuy 山・の方にいる・神 」と呼ぶのだが、山は、ここでは場所の概念を表している。一方に「 nupuri 」という語彙があり、中川氏のアイヌ語辞典では名詞とされ、ヌプリ nupuri 【名】山 ; 【類義語】キム kim が〈場所〉としての山を指すのに対し、ヌプリはそびえ立っている物体としての山を指している。...と説明している。
 ここで問題とするのは、後者の、この「 nupuri 」という言葉である。これが「~する・者」という語の構成になっているのは余り知られていない。アイヌ語学の天才・知里真志保博士によれば、その語の成り立ちは、「nu-puni-(i) =顔を・もたげた(持ち上げた)・者」だと言うのだが、「持ち上げる」を意味するアイヌ語の puni が、なぜ、ヌプリという言葉の中では puri という音(おん)に、都合よく n が r に音韻転換してしまうのかという説明が出来ないという重大な問題が有るのである。

 この「 nupuri 」という言葉は、知里氏の言うように「 nu (顔) puni (を持ち上げる) i (者) 」と分析するのは正しくなく、「 nupur-i 白いものを出す・者」と見るのが正解なのである。このことは、実は「 nupur 」という動詞を正しく抽出できるかという問題に帰着するのである。次回では、別の地名(川の名)の分析を通じて、ヌプリが白いものを吐き出すものであることを証明したいと思う。北海道に登別(のぼりべつ)という地名がある。実は、「 nupurpet 」という川の名が原名なのだが、この川の名の通説の捉え方には大きな間違いが有るのだが、それは次回の楽しみにして頂きたい。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-09-19 12:34 | Trackback | Comments(0)