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生産活動に見る縄文と弥生ー71 (通巻第422号)
 アイヌ語の arpa (一般的には「行く」の複数形と考えられている)という語彙の意味を考えてみよう。中川氏辞典に述べられている説明文が、参考になる貴重な視点を提供してくれるので、一緒に見て頂こう。

▽ アラパ arpa 【動1】(単) パイエ paye (複)。行く。(川や道筋などが)伸びている ; 一般に、話者の視点の位置から別の位置に移動することを表すが、山手↔浜手という方向軸に沿って移動する場合には、山手の方向に進む場合にしか用いられない。
浜手に向かう場合にはサン san 「下りる」が用いられる。...中略...空間的な移動の場合のみならず、状態の変化にたいしても用いられる。...以下、省略。
...注目して頂きたいのは、「一般に...」以下の部分である。「話者の視点の位置から、別の位置に...」というのが、 arpa という語彙の示す意味の中核を成す部分だという事である。これは、さきに述べた中国語の「走 zou 」という語が受け持つ意味とピタリと符合・一致するものである。
▼ ところで、中国語の「走」が、「歩く」は意味しても、日本語で言う「走る」を意味しないとすると、では、中国語で走るを何と言うのかと言うことが気にならないだろうか。少なくとも、現代語では「走」は用いられずに、「パオ pao 」という言葉が使われるのだが、その漢字をこの画面上に表示するパソコン技術が残念ながら私には無い。やむなく二文字に分解して画面に表示するので、頭の中で再構成して頂きたい。
 ◎ 左側 ; 足偏(道路の「路」の字の左側の偏の部分)  右側の旁(つくり) ; 「包」の字
   補足説明すると、「路」の字の右側のつくりの「各」の字を取り去って、替わりに「包」の字を入れたものである。
 このあとの説明の便宜上、二文字を合成して一文字「足包」として、これで pao と読んで頂きたい。
△ この中国語の「走る=足包 パオ pao 」は、どういう意味と説明されているのかを見てみよう。これも、参考になるのである。
 pao ①[動]走る。②[動]逃げる。③[動]ある用務のためかけずり回る。④[動](物があるべき場所から急に)動く。等々。

...中国語では、「走 zou 」は走るでなく「歩く」を意味する。「走る」の方は「足包 pao 」と言い、基本的な意味は「急速に移動する」である。ここにアイヌ語と日本語(大和言葉)の不思議な関係がオーバーラップしないだろうか。

「ゆっくりと移動する」が、日本語では「歩く」、アイヌ語では「arpa 、arki 」に繋がり、「急速に移動する」はアイヌ語では
「paye 」に、大和言葉では「 paya 速(はや)」に繋がって行くのではないだろうか。単なる言葉の遊びに過ぎないではないかと笑ってはいけないのである。次回は、その辺の理由付けを明らかにしよう。  (次回につづく)



by atteruy21 | 2018-10-31 12:32 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー70 (通巻第421号)
 「複数のものが行く」というのが「 paye 」というアイヌ語の意味する所である。...現在の時点では、これがアイヌ語を話す人々の常識である。しかし、これは全面的な真理ではない。 paye という言葉は、いつも「行く」を意味するとは限らないからである。

 ...皆さんの常識的思考からすれば、なかなか受け入れがたい点が有ると思うので、外国語の助けを借りて、この paye というアイヌ語動詞の不思議な性格を理解する糧(かて)として頂こう。
...「走る」という漢字がある。中国語では「走 ( zou ツオウ と読む )」と書くと、それは「走る」を意味しない。中国語の辞典では、どういう意味の言葉とされているか、ちょっと見てみよう。
▽ 現代中国語辞典 【走】 zou (第三声) 
 ①(動詞) (1)歩く・歩行する (2)動く・動かす・移動する (3)運ぶ・運送する
 ②(動詞) 出かける・出発する・立ち去る 
 ③(動詞) 経る・経過する  ...等々、動詞だけで大別して9種の意味がある。以下は省略したい。
 ご覧になればお分かりになると思うが、「走」という言葉の基本的・中核的語意は、「或る地点から他の地点へ移動する」だということが一目で明らかだろう。

...結論から先に言うと、アイヌ語の paye も中国語の「走」と同様に、「移動する、出かける、立ち去る」と言うのが原意だと思われるのである。 san や ahun と同様、見る者・語るものの視点が何処に在るかによって、「行く」にもなるし、「来る」を表す場合も有るのである。

 ▼ アイヌ語のサークルに入って未だ間もない頃、アイヌ語の辞典を見る度(たび)に、いつも不思議な気持ちに囚われたことを思い出す。アイヌ語と日本語の不思議な関係と言うか、くっついたり離れたり、同じ意味だったり反対の意味になったりと、正に不可思議な様相を呈する語彙の相関図が、目の前にチラついてならなかったのである。
 ▲ ek 来る(単数)、arki 来る(複数)、arpa 行く(単数)、paye 行く(複数)、oman 行く(単数)等々、錯綜している。また、
arki や arpa というアイヌ語は、日本語の「歩く aruk 」と果たして関係が有るのか無いのかなどと。
 次回は、「 arpa 行く 」というアイヌ語に焦点を当て、 paye に繋がる語意の考証をしてみたい。
  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-10-30 11:01 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー69 (通巻第420号)
 単数と複数の違いを表すとされる動詞の語形変化に、どうも数の概念では説明できないものがあるようだと言うのは、お分かり頂けただろうか。...と言うより、例えば un と us という語は、同じ意味の言葉の単数から複数への変化形なのでなく、意味は近いけれど、元々は違う意味の別の語彙だったのではないだろうか、と私は考えるのである。
 ただ、この問題の追究は一旦ここまでとし、知里見解の先に眼を遣(や)ろう。単複問題も「胸突き八丁(むなつきはっちょう)」に差し掛かった。頂上まであと僅かである。もう一踏ん張りだ。

▽ 知里真志保「アイヌ語入門・67 数による動詞の語形変化」より
(5)単数の形と複数の形とが語原の上で何の関係も無さそうなものがある。 ek (来る) → arki (同、複数) ;
 oman (行く) / arpa 【沙流方言】(行く) → paye (同、複数) ; a (坐る) → rok (同、複数) ;
 as (立つ) → roski (同、複数) ; an (ある、いる) → okay / oka 【沙流方言】(同、複数) ;
 oma ([そこ]にある、いる) → o (同、複数)。

...知里氏は、単・複の語の形が「語原」(=語源)の上で何の関係も無さそうな、と述べておられる。だが、実は関係が無いのではなくて、近くて少し意味合いの違った語彙というのが、正しい位置付けになるのである。少し前に、san → sap だの、 ahun →
ahup 等の、立場・視点を何処に置くかで意味の違いを表す語彙を検討した。そう言うアイヌ語に特有の語法・語意を表す表現に特段の注意を払う必要が有るのである。この(5)の冒頭の oman / arpa (行く) → paye (同、複数)という誤った記述が、逆に我々の行く手を照らしてくれる、闇夜の提灯になるのだから、思い込みというのは皮肉なものである。

▽「 oman / arpa 」と「 paye 」という語彙は、別の概念を含む語であったと私は考えている。行為の主体(つまり行くもの)が複数であることだけを表すと見られてきた「 paye 」という言葉は、「複数のものが行く」という関係を必ずしも表示しないのである。
 アイヌ民族の女性たちの輪唱にウポポという歌がある。その一節に、「 kamuy sinta etunun paye .「カムイの乗るシンタが、まっしぐらに空の彼方へ飛んで行く」という表現がある。「シンタ」と言うのは、赤ん坊を載せる板状の揺りかごを言うのだが、アイヌの人たちは、神々はこの揺りかごに乗って大空を行き交うのだと考えたのである。この歌の場面は、恐らく、一台の空飛ぶ乗り物が彼方の空へ飛び去って行くところだろう。ただ、この paye は、飛び「去って行く」とだけ言っているとは限らないから、ことは面倒なのである。逆に飛んで来るのかも知れないのだ。 (次回をお楽しみに)


by atteruy21 | 2018-10-29 10:54 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー68 (通巻第419号)
 いわゆる「複数形」の動詞の形について、もう少し「アイヌ語入門」の記述を逐(お)ってみよう。
(4)単数の形は -n 、複数の形は -s で終わっているという例もある。ただし、次の一組だけ。 un (ついている) →  us (同・複数)。知里氏の記述は、あっさりと只これだけ。何の説明もない。語学の素人の私の場合には、これだけで済まして次へという訳にも行かないから、少しだけ補足の説明をしよう。
▽ un と us は、ともに物と物が「離れがたくくっ付いている」という概念を表すのだが、単数と複数の対比という線上で語られるものではなく、「くっつく」状況の微妙な差があるように私には思われる。
 知里氏は、「アイヌ語入門」の別の項(69・複数の形の古い意味)で、次のように述べておられる。「一方、いま複数と言われているものは、古く群在、群生、群集などの意味を含んでいたらしい。 us などは、いまは un の複数と考えられているが、地名の中では「群生する」の意に用いられている。
▼ Si-ki-us-i シキウシ si-ki (オギ) us (そこに群生している) -i (所)。永田氏は“鬼茅多キ処”と訳しているが、単に多いというだけのことでなく、「群生している」「密生している」という意味なのである。...としている。勿論、それなりに意味は通るのだが、やはりこれも「複数」の観念に囚われ過ぎている観が否めない。

△ 私は、 un との関係を含め、 us は「複数(たくさんの)」の意味でなく、例えばsiki-us-i は「オギが・大地(土中)から外側へ地表へ出てくる(生える)」を意味するのであって、必ずしも密生するものではないと思うのである。これは、 un が、何処かへ何かが一つ入るを意味しないで、「何かの中へ入り込んで行く」を意味するものであることと対照をなすものである。
 なお、 un は「入る」を表すことが多いが、それは単に「入る」という意味でなく、「入り込む」「入って出て来ない」、「入ってずっとそこにいる」、までを意味する。さらには「嵌(は)まり込む・嵌まっている」などを表す。これは、us とともに、その原意が「くっ付いている・くっついて離れない」に由来するものであるからに他ならない。

...「土筆(つくし)」という言葉がある。春先に、ニョッキリと土の中から顔を出す、愛らしい植物である。この愛らしい呼名も
アイヌ語由来ではないかと私は思っている。「(he)-tuk-us-i (土中から)頭を・突き出す(生える)・者」と読めないだろうか。
 hetuk と言うのは、①生える、②(太陽、月などが)出る。(水が)湧き出る。...と中川辞典にもある。

▲ un と us は、単数と複数の対比語ではなく、何かにくっ付いているという意味を保持しつつ、「内に入り込む」と「外に伸び出す」の対立関係を付加するもののように私には思えるのだが、あなたはどう思われるだろうか。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-10-28 12:56 | Trackback(24) | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー67 (通巻第418号)

 アイヌ語の世界観に於ける視点の双方向性の話題に触れたついでに、例によって少し横路にそれて、その「視点の双方向性」について説明しよう。それが、アイヌ語の世界に際立った特徴をよく示し、アイヌ語と言うものの在り方を知る為の、近道であるとともに大道であるからである。
 ▼大分前に述べた「アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別が無かった⁉...その2」から一部を抜粋する。
 「 kamuy orowa aynu a=rayke .」という文から「 orowa (力が何処から発するかを示す辞)」を取り除くと、「 kamuy aynu
a=rayke .」となる。後者は、 kamuy (熊)が一方的に aynu (人間)を「殺す」ともとれるし、 aynu (人間)が kamuy (熊)に
「殺される」と捉えることも許される。
  二つの訳文をよくよく観察して頂きたい。熊と人間と、両者がたった一つの文章の中で、語順や語の位置を替えることなく、互いに、平和裡に、文の主人公の位置を分け合っているのである。その仲介となり触媒の役割を果たすのが、接頭辞「 a=...」である。分かり易さを優先するため、いわゆる「人称接辞」の記号を用いてはいるのだが、その実態は接頭辞であり、人称作用には
関わらない。ちなみに、熊も人間も三人称であるから、「人称接辞」など元々付く筈もない訳である。念のため。
 ▽さて、冒頭に「アイヌ語と日本語には、主語と目的語の区別が無かった⁉」とショッキングな見出しでこの論を提起した。
しかし、この論で大切な点、いわゆる「肝(きも)」は、誰が、何が主語(行為などの主体)であり、誰・何が目的格(行為の客体・対象)であるのかに在るのではなく、いったい誰の、何者の視点から物が語られているかという、そのことに在るのである。

▲ 熊と人間と、それぞれの視点・視座からの叙述が、全く同一の、ただ一つの文章の中で語られるというのは、世界広しと言えども、アイヌ語(と昔の日本語)だけに見られる言語事象なのである。
 この「叙述の双方向性(場合によっては多方向性)」は、アイヌ民族の世界観を形成する上で、大いなる役割を果たして来たのである。自分の側からだけの、自分の眼を通してというだけの思考、物の見方というものは、当然に、視野の狭い、身勝手なものになる危険を孕(はら)まざるを得ない。自分以外の眼、他者の気持を「言語意識」の中に、ごく自然に包摂するアイヌ語。カムイや
大自然の視点を特に意識せずに、素直に自己の心の内部にもつアイヌ語の発想が、自然に対するアイヌの敬虔(けいけん)で感謝に溢れた思想を、じっくりと育んできたと言えるし、人と人の信頼を何よりも大切にする生活態度の醸成に大いに貢献したことは、
紛れもない事実だと私は思うのである。

 あとの論議に役立つとは言え、少し道草を喰い過ぎてしまった。次回は「複数」の問題に戻ろう。(次回につづく)



by atteruy21 | 2018-10-27 09:55 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー66 (通巻第417号)
 数による動詞の語形変化(続き)
 (3)単数の形が -n 、複数の形が -p で終わっているものがある。 aynu san .「人が浜へ出てきた」。 aynu sap .「人々が浜へ出てきた」。この種のものは、次に掲げる7組14個の動詞がその全部である。
 ahun 「(外から内へ)入る、入ってくる、入って行く」 → ahup (同、複数) ; asin 「(内から外へ)出る、出てくる、出て行く」 → asip (同、複数) ; ran 「(高い所から低い所へ)降りる、降りてくる、降りて行く」 →  rap (同、複数)
rikin 「(低い所から高い所へ)登る、登って行く、登ってくる」 → rikip (同、複数) ; san 「(山奥から)浜へ出る、出てくる、出て行く」 → sap (同、複数) ; makan 「(浜から)山奥へ行く、山奥へ来る」、「(前から)後ろへ行く、後ろへ来る」
→makap (同、複数) ; yan 「(海から)陸へ上がる、上がって来る、上がって行く」 → yap (同、複数)。...中略...
▽ 内から外へ移動する動作が asin / asip 「出る」で、その動作を「内」に立って見れば「出て行く」、「外」に立って見れば「出て来る」となる。また、外から内へ移動する動作が ahun / ahup 「入る」で、内に立ってその動作を見れば「入ってくる」
外に立ってその動作を見れば「入って行く」となるのである。
低い所から高い所へ移動する動作が rikin / rikip 「登る」、高い所から低い所へ移動する動作が 、ran / rap 「降りる」である。それらも、高い所と低い所と、どちらの立場に立つかによって、「降りて行く」「降りてくる」、「登ってくる」「登って行く」となるのである。その他の語も、その辺りの関係はまったく同じである。
▽(私の注釈) この(3)に述べられた点は、単数・複数の問題とは離れるのだが、極めて重要な視点を提供している問題なので、ここで取り上げざるを得ない。私は、アイヌ語にも日本語にも、単数・複数の語形の差異は元々は無いと考えている。それはもう何度も強調した所だが、この動詞語尾に -n と -p が付くことによって生じる意味の違いの示す所は、「単複問題」の検討の域を遥かに越えて、重要な意味を持っていると考えるのである。

▼ 前に、アイヌ語の発想の「双方向性」について述べたことがある。複合的、単眼ではない複眼的思考の問題を芥川龍之介の「薮の中」を取り上げて論じたことを覚えておられるだろうか。殺される方(ほう)の視点と、殺す方の視点と、通りすがりの旅人の視点が一つの事件について様々に語られる。その一つ一つが、それぞれに真実であり、或いは真実を含むかも知れないという、究極の比喩的作品である。
 アイヌ語に於いては、全く違った立場・視点が、たった一つの文章で成立するという、あの「双方向」である。
 Kamuy aynu arayke . この文は、「熊が人間を殺した」とも、逆に「人間が熊を殺した」とも、どちらに採ろうとも差し支えないのである。それで文法的にも、誤りは無い立派なアイヌ語の表現なのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-10-26 14:30 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー65 (通巻第416号)

 複数形の動詞を複数を作る語法の二つ目として、知里氏は「単数の形から語尾の母音を取り除き、それに -pa を付けて複数の形を作るものがある」として、幾つかの例を挙げておられる。(例示された語彙の組み合わせは、既に紹介済みなので割愛する)
 そして、その語群の成立の理由や経過については何ら触れる事もなく、ただ、「この種に属するものは、或る特殊の複合動詞である」として説明を終えている。この「複合動詞」の意味や役割の説明は一切(いっさい)されていない。
▽ いまの段階では知里氏に説明をしてもらう訳には行かないから、考えられる理由を知里氏に代わって説明して置かなければ、この二番目の語法の紹介を終えて、次の三番目の「複数形」に進む訳(わけ)にも行くまい。

...複合動詞というのは、単数の動詞の意味に別の動詞的或いは副詞的要素の意味が付け加わったものを指すと私は見ている。
▼ 例えば、sikiru → sikir-pa という動詞がある。 sikiru と言うのは si-kiru (我が身の・向きを変える)を意味し、中川氏辞典では「振り向く」と訳されている。一方、知里氏は「アイヌ語入門」の複数形の例文で「 sikirpa 」を「ひっくり返る」と訳している。正確に言うと、実は知里氏は「 sikiru 」自体を「ひっくり返る」と訳しているので、正確には複数形になることで付け加わる意味ではないから、直接の例文としてここに挙げるには、相応(ふさわ)しくないものかも知れない。
 ただ、 sikiru 「ひっくり返る」の訳文については、面白い話が有るので敢えて取り上げたのである。紙幅の関係で、ここでは
これ以上述べられないのだが、あとに続く「敬語語法」と関連があると言うことだけ言っておこう。「お役人がひっくり返られた場所」という地名が有ると知里氏は紹介している。「 nispa ko-sikir-us-i お役人が・そこで引き返す・ことが常である・所 」と言うのが普通の、穏当な訳文だとされるのだが、知里氏は敢えて、「役人の旦那が・そこでひっくり返った・所」だと主張し、アイヌの民衆が日本の侍たちの傲慢な態度に怯(ひる)まず笑い飛ばした、批判精神が産み出した地名だと言うのである。

▽ ちょっと複数形の話とはずれてしまった。本道に立ち返ろう。
...(3)単数の形が -n 、複数の形が -p で終わっているものがある。
 aynu san . 「人が浜へ出て来た」。 aynu sap . 「人々が浜へ出てきた」。この種のものは、次に掲げる7組14個の動詞がその全部である。
 ahun 「(外から内へ)入る、入ってくる、入って行く」→ ahup ; asin 「(内から外へ)出る、出てくる、出て行く」→ asip ;

 途中だが、続きは次回に。  (次回につづく)


by atteruy21 | 2018-10-25 12:20 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー64 (通巻第415号)

 アイヌ語には単数と複数を、語の形の上で区別するという考え方が、元々は無かったのではないかと私は考えている。しかし、そうは言っても、色々な形で複数形とされる動詞の語彙が存在し、複数を表す語法・言い回しが辞典にたくさん載っているという事実を無視する訳にも行かない。
 しかし、辞典に載っているからそれが真実だとは限らない訳で、誤りを含む認識が国民的大辞典や高名な学者の著書・研究書に堂々と大手を振って登場し罷り通ってきたことは、このブログでも度々実例を示し指摘してきた。そこで、そうした誤りに簡単に騙されたりしない為には、複数の観念、複数を表すとされる語彙の在りように関する、より厳密な検討が必要になると私は思う。
 そこで、時々は大きな過ちを犯しはするものの、鋭い着眼点で批判精神の権化(ごんげ)と目されてきた、あの知里真志保博士の「アイヌ語入門」を題材に採って、「厳密な検討とは、どのようなものか」ということを常に頭の片隅に置きながら、「複数」と言うものの検証を進めて見たいと思う。

▽ アイヌ語入門 67: 数による動詞の語形変化 (要点のみ抜粋)
...いわゆる「数(すう)」に関して、アイヌ語の動詞はかなり複雑な語形変化をするわけである。
(1)単数の形がそのまま複数の形にも用いられる例が多い。大多数の動詞がそれである。 mina (笑う) ; sini (休息する) ;
yaynu (思う) ; cis (泣く) ; itak (物いう)など。この種のものはそのまま単数にも複数にも用いられる。...(中略)...
 しかし、とくに複数であることをハッキリと形の上に示そうとするときは、接尾辞 -pa をつける。 mina-pa (二人以上の者が笑う) ; sini-pa (二人以上の者が休息する) ; yaynu-pa (二人以上の者が思う) ; cis-pa (二人以上の者が泣く) ; itak-pa
(二人以上の者が物言う)など。
《私の注釈》 知里氏のものの言い方は、氏には珍しく微妙なものになっている。奥歯に物の挟まったというか、実はアイヌ語の動詞は、単複同形のものが殆どだと言うことなのである。その稀少な例外が接尾辞の -pa を付ける語法なのだが、複数形という西洋式概念に囚われて、動詞が元々は単複同形のものであると述べられないだけの話なのである。

(2)単数の形から語尾の母音を取り除き、それに -pa を付けて複数の形を作るものがある。
 aynu hosipi . 「人が ー 戻った」。aynu hosip-pa .「人々が ー 戻った」。この種に属するものは、或る特殊の複合動詞である。以下、少しばかり例を挙げておく。...以下、次回に。
  (次回につづく)


by atteruy21 | 2018-10-24 11:22 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー63 (通巻第414号)
 アイヌ語の動詞に果たして「複数」の観念が有るのかという問題を、いま検証している。「二人のアイヌ(人)がひとりで行く」という言い方がアイヌ語では実際に行われていること( = tu aynu oman . )、そして、それが背理として文法的に排除されないということは、即ち、「アイヌ語には、複数の概念が文法上は存在しない」のだとする極論に一定の根拠を提供するものと言える。 だが、動詞の複数形と言うのは、現に掃いて捨てるほどアイヌ語には有るではないかという強力な反論に、手も無く捻(ひね)られてしまうのが「落ち」である。そこで、全体としてのアイヌ語に複数の観念が有るのか、無いのかの結論を出すことは先送りをして、幾つかの動詞の複数形と言われるものの再吟味(さいぎんみ)を、もう少し続けることにしてみたい。
 なお、例文に挙げたこの「 oman 行く 」という語は単数形とされ、「 arpa 行く(単数)」という別の方言も含めて、複数形とされる「 paye 」と対比される。これは面白い問題を提起するのだが、それは後ほど検討することとしよう。

▽ Upasomai ウパソマイという地名がある。 oma という語の性質を知る上で参考になると思われるので、この地名の解説を知里博士のアイヌ語入門の記述から見てみよう。知里氏が論敵を攻撃する際のいい鴨にした、永田方正氏の「北海道蝦夷語地名解」の問題点を槍玉に挙げた文の一部である。ただし、論敵を打ちのめした知里氏自身も誤っていると言うのは、何とも皮肉である。

▼ Upas-oma-i ウパショマイ〈 upas (雪が) oma (そこにある) -i (所)。“此処ノ積雪千古解ルコトナシ、故ニ名クトイウ”
(地名解105)。雪が一つあるなどという事はあり得ない。ここの oma も数にかかわりなく、ただ「そこにある」という意味に過ぎないことは、はっきりしている。それに対して Upas-o-moy ウパソモイという地名もあり(地名解492)、「雪が・(そこに)
ごちゃごちゃある・湾」の意である。...以下、省略。

...知里氏は、oma が単数である、或いは、ただそこにあるという概念だけを表すと強調したいが為に、敢えて「雪が一つある」などと永田方正氏が言ってもいない訳語を持ち出し攻撃している。一方で、自分の「 o 」の訳語を複数に囚われて、 upas-o を
「雪が・ごちゃごちゃある」などと勝手な訳を施して済ませている。語感の問題だと言ってしまえばそれまでの話なのだが、言葉と言うもののの意味合いを疎(おろそ)かにしてはならないのである。

 ▽ここはやはり、永田氏の肩を持たねばなるまい。永田氏の訳のように、ウパソマイと呼ばれた場所は、山の陰に当たるかして根雪が溶けずに、常に雪で覆われた場所であったのだろう。ただ雪がある処と言っても、それは地名にはならないのである。
 upas-oma-i 雪が・常にある・処 、永田「地名解」が正解な訳である。知里君の負け ‼  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-10-23 11:19 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー62 (通巻第413号)
 知里真志保氏は「 oma 」という語彙に、単に「(そこ)にある」という意味・概念だけを認め、「 o 」という語彙には oma の複数形の位置付けを与えた上で、「うじゃうじゃ・うようよいる」というような感じがあると言うような、余り語の意味の定義というには相応しくない説明をしている。結果だけを捉えれば、「 oma 」は単数、「 o 」の方は複数形であると言っているに過ぎない。しかし、私はこの考え方に賛成しない。「 oma 」は、本当に「そこにある」という概念だけを表すものなのだろうか。

...Tomakomai という地名(恐らく元は川の名)がある。「 to 湖 ・mak ~の後ろ ・ oma ~にいる ・ i 者 」と分析される。
▽ 「 oma 」を単に「~にある(いる)」と訳しても、一応は意味は通る。しかし、それではいわゆる「複数形」の形をとる理由が説明できないのである。問題の地名・苫小牧は、大きな湖(支笏湖・しこつこ)の側を流れている勇払川(ゆうふつがわ)を指す命名であると思われる。だが、勇払川がただ「支笏湖の側にある」と言うだけでは、地名(=川の名)の由来としては根拠が薄弱に過ぎるのである。私は「 oma 」は、「いつも(支笏の側)に居る」を意味していると考えている。川というのは、季節によって気象によって、或いは時の流れに伴って流路を変え、その姿を変えることも少なくない。
 ...勇払川は、姿・形を変えることなく、「常に」支笏の側に付き添っている、そんな淑(しと)やかな女性のイメージをもった川ではなかったか。

... Matomai という地名がある。あの「松前藩」の松前である。「松前」という漢字に引かれて、この地名を日本語だと思っている人は少なくない。学者・研究者の中にさえ、「松前」を日本語だと信じている人がいる。しかし、紛れもない立派なアイヌ語で「マトマイ matomai」という名が出来るのである。結論を急ぐと、matomai は「 mat - oma - i 女たちが・いつもいる・所 」と
分析できるのだが、それだけでは地名の由来を理解いただくには不足だろう。

▽ かなり古い時代から、少なからぬ日本人が、「蝦夷地」に色々な形で進出した。有り体(ありてい)に言えば「侵略した」のである。その際、初めは民族的抵抗を受けて蝦夷地に渡った人々は、妻子を蝦夷地に伴うには危険に過ぎ、言わば、男だけの単身赴任のような形を採らざるを得なかった。時代も下り、江戸時代を迎えんとする頃には、蝦夷地に女・子どもも連れていけるようになった。その時に、松前地は、安全で女たちが安住できる場所になっていた訳である。
▼「 mat -oma -i 女たちも・安住できる・所 」、それがマトマイ・松前の命名の謂れである。「 oma 」は単に「そこにある」という意味でなく、「安心して、いつもいる=安住する」という新たな意味を獲得しているのである。複数が中核の概念なのではないのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2018-10-22 09:43 | Trackback | Comments(0)