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生産活動に見る縄文と弥生ー163 (通巻第514号) 
 アイヌ語の「 tan ・ tap 」は、「これ」や「この」という枠組みには収まりきらない、深い意味合いを持っていると述べた。
中川辞典の記述に即して、先ず「 tan 」の意味の吟味から始めてみよう。ただ、その前に「 tan 」の一般論を確認しよう。
...「 tan = この 」という連体詞は、一般的には「 ta そこに・ an ある 」=「ここ・なる、それ・なる」という構成で出来上がった語彙だと考えられている。その「 ta - an 」が約(つづ)まって「 tan 」という言葉になったと。しかし、その考え方は説得力が有りそうでいて、しかし矛盾も破綻(はたん)も目立つ、言わば「砂上の楼閣」なのである。「タン」は「そこに在る」や
「目の前の」を語源とするものではない。それが私の考え方である。その上に立って中川辞典を一緒に検討して頂きたい。

▽ tapne kane ikemnu kewtum a=yaykorpare . tanpe kusu omanan pe a=ne ruwe ne wa .
 こういう訳で 憐愍の情 我自らに持たしむ。それ故、歩き回っているのだが...
(私の解説)文の後半部分の「 tanpe kusu 」の意味の捉え方に重要なポイントが有るのだ。中川教授は通説に従って、この文章を
「この・こと(もの)・故に」と解釈しておられるようだ。だが、ここで言う「 tan ・ pe 」は、単に「ここに・在る・もの」と言うよりは、「このようにして、そして今ここに在る」という、出自と経緯を含意する語彙なのだと私は見ている。それは、この例文の頭の部分の「 tapne kane 」にも言えることで、中川氏自身も「こういう訳で」と訳し、この「 tapne 」が、その前段の文を承(う)けた、経緯(いきさつ)を語る語句であることを認めておられることからも証明されるのである。

▼ 「 tan-pe 」は「ここに在る・もの」ではなく、「かくて在る・もの」が、その成立の沿革に立った正しい分析なのである。
...より正確に「 tanpe 」を日本語に置き換えれば、「斯(か)く為(し)て・在る・もの」となろうか。『斯く為て = かくして→こうして』アイヌ語の「 tan 」は成立するのである。
◎ 通説が「 tan 」を「 ta-an = そこに(眼前に)在るもの 」と分析したことの誤りのツケは、冒頭に紹介したアイヌ古老の神の前での祈りと感謝の言葉の正確な理解を妨(さまた)げるという、正に罰(バチ)当たりな結果を招来することになる訳である。

☆ 「 Tanpe anakne...(これなる物と申しまするは...)」という、このエカシの神前での常套句(じょうとうく)は、単に「ここに在ります物は」と言っているのではなく、我々人間(アイヌ)が、心を込めて造りだし、カムイのお力によって今ここに「こうして在る、この物は...」とカムイの恩恵に感謝する言葉なのである。
...いよいよ最後は、「 tar 」から「 tan , tap 」への音韻変化の必然性の証明である。それは、「 tan 」や「 tap 」という語の元となった「 tar 」が、合成語・複合語だったことに由来するのである。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-31 14:46 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー162 (通巻第513号)
 いま私たちは、「 tan 」や「 tap 」という言葉の源郷を探し求める長い旅を続けている。遠くに霞んでいたこれらの言葉が、少しずつ、くっきりとその姿を現し始めた所だと思う。旅には、「何処か遠くへ行きたい」という歌の文句のように、知らない町をさ迷うという楽しみ方も有るようだが、より楽しい旅に、有益なものをより多く得る旅にするためには、目的地の事前の調査も
必要だろう。その土地の魅力の在り処(ありか)を知り、早くそこに行ってみたいと思うことが、歩き疲れ痛み始めた脚を癒すことにもなるのだろう。一歩一歩「 tan 」や「 tap 」に向かって歩を進める態度も大切だが、飛行機にでも乗って、一足飛びに目的地に向かい、上空から周辺を見回してみるのも、一つの上手なやり方なのかも知れない。高みからの視点が、今は途切れ途切れに見える道の痕跡・点を、一本の連なった線をなす路(みち)として我々の眼前に浮かび上がらせてくれるかも知れないからである。

▽ 「 tan ・ tap 」と言う語の実際の使用例を辞典により観察してみよう。どんな意味合いで使われるのか。中川辞典で。
 取り上げる言葉は、取り敢えず tan 、tanpe 、tap 、tapne の4語としたい。多くの重要な視点を提供してくれるのである。
...タン tan 【連体】①この ; 眼前にあるものを指す。②物語中の用法として、目の前にいる相手に呼びかける場合に用いる。
...タンペ tanpe 【名】これ。それ ; 自分の手に持っているような、手近にあるものを指し示す。文脈的には、話の中で直前に出てきた事柄を指し示す。
(例文1) kunawpe sekor a=ye p tanpe ne wa . 福寿草というものは、これだよ。
(例文2) tapne kane ikemnu kewtum a=yaykorpare . tanpe kusu omanan pe a=ne ruwe ne wa
   こういう訳で憐愍(れんびん)の情を起こしたのだ。それ故、歩き回っているのだが、
...タプ tap 【副詞】このように。こうして。
...タプネ tapne 【副詞】このように ; タプネ カネ tapne kane 「このように」
(例文1) taan wen kamuy sirun wen kamuy an kusu tapne pirka aep a=e ka eramuskari
     この悪神、腐れ悪神のせいで  このように、おいしい食べ物を食べたこともなかった
(例文2) tapne kane tapne kane an pe これこれしかじかということ
 (私の註) 例文2の訳語は、「かくかく、しかじか」と訳すのが普通である。中川氏の訳は、現代語では認められる言い方だが古文では使われない。この「かく」は漢字で書けば「斯(か)く」となる。例えば、「ツアラツストラ、斯く語りき」等のように。

▼ 観察力の鋭い方は、これらの幾つかの短文だけで、 tan や tap の、「これ」や「この」の概念の枠組みには収まりきらない深い意味合いを感じ取られたことだろう。次回は、その枠組みにメスを入れることになる。 (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-30 14:27 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー161 (通巻第512号)
 古アイヌ語の「 tar 」が、人間(アイヌ)である「我々が造り出した」という観念を表すのだと言うことは、多くの方に納得をして頂けたと思う。なお、正確を期するため、「古アイヌ語」という命名について説明をして置きたい。実は、この命名には元々論理上の矛盾が潜んでいるのである。
...実は、民族名を表す「アイヌ」という観念自体は、歴史的にはごく新しい観念であって、遡るにしても、せいぜい鎌倉時代になって成立した観念なのである。大和人でも、その他の北方民族でもない、「我ら(アイヌは utar,-i 同族と意識した)」という意識、つまり民族意識は鎌倉時代前後の産物なのである。アイヌが自らを民族と意識した鎌倉時代には、既にその口にする言葉は現代のアイヌ語と殆んど変わらないものになっていたと考えられるから、いわゆる「アイヌ語」には、厳密な意味での古語は存在しないという結論となる。もしアイヌの祖先に該たる人々の口にした言葉に、敢えて名を付けるとすれば、それは「古アイヌ語」などではなく、「ウタリ語=我が同族の言葉」とか、アイヌ民族自身の側・立場からは、ご先祖様の話された言葉という意味で、「 a-ekasi itak 」あたりが相応しいと私は思うのだが、どう思われるだろうか。歴史的沿革から見て、「蝦夷語=えみし語」という命名も考えられなくはないが、命名の立場・視点が大和の側に寄り過ぎていて、私には抵抗がある。
...ともあれ、アイヌの先人たちの言葉は、便宜上、いままで通り「古アイヌ語」として論を進めたい。

▽ さて、本題に戻ろう。いよいよ「 tar 」が「 tan 」に変化する、その道筋及び変化を必然とする道理を明らかにする作業が待っているのである。
...今までの論議の流れを見て、勘の良い方は、アール( r )の音がエヌ( n )の音に変わるのは趨勢(すうせい=物事の成り行き)なのだと、そう言う話になるのだろうと、早々と見切りを付けておられるかも知れない。それはその通りなのだが、その趨勢論迄で終わってしまっては、隠された真理を追求するに足る分析的思考とはならないのである。ここは是非とも「 tar 」が「 tan 」に
変化せざるを得ない、その必然性の論証が求められる場面だと私は思うのである。

▼ アイヌの先人たちが、作物の豊穣(ゆたかなみのり)や鳥獣の豊漁・猟を祝い、カムイに感謝して行う祭り「 kamuy-nomi 」の場を想像して頂きたい。若者(オッカヨ)たちの勇壮な舞い(タプカラ)が終わり、猟の獲物やたわわに実った穀物などを手に、髭も豊かな古老(エカシ)の一人が、しずしずと祭壇の前に進み出て、恭しく厳かに祈りの言葉を、口上を述べる。

☆ ...Tan pe ( tapan pe ) anakne...これなる(かくある) 品々 と申しまするは... このように神前で、獲物や作物を誇らしげに取り出し掲げて、神に捧げるのである。   (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-29 11:32 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー160 (通巻第511号)
 神が賜(たま)う自然の恵みを、そのまま戴くというのが、 kar という言葉の古くからの意味である。これに対し、自然に向き合い働きかけて、そこには無かった何者かを手に入れること、その為のあらゆる行為を ta と言うのだ。この観念が、例えば後の大和言葉の「打つ」にも繋がって行くのである。

▽ 自然界には元々無かった物を人間の手で新たに造りだし、或いは、自然の物に手を加えて、より人間の役に立つものに変えて行く。人間が世界(自然界)に働きかけて、その世界の一部を変え己(おのれ)のものとする。この「生産」や「仕事( = 加工)」という概念に到達するまでには、「 ta 」という語彙では、いま一歩の距離が有るのである。
...狩猟採集から物の生産への大飛躍をなす為には、「 ta 」にプラスして「 ar 」という観念が付加される事が必須(ひっす)となり、更にその後のもう一展開が必要となるのである。先ずは、「 ar 」との合成、化学変化の噺(はなし)をしよう。

▼ 「 ar 」というのは、古い時代の日本列島に生きた人々の言葉で、アイヌ語の「 an 」や日本語の「有る・在る」に繋がって行く「存在する」の意味を表す動詞である。ただ、この「 ar 」という音(おん)は、アイヌ語や大和言葉の祖語として私が勝手に想像し、想定した「縄文語」の復原語彙なのだと言うことは、これまで何度も述べてきた通りである。

◎ 但し、私の復原したこの「 ar 」という縄文語は、現代語で言うところの只の「有る・在る・ an 」を意味しない。縄文語の ar は、極めてアグレッシブ(攻撃的・侵略的)な語彙で、「何か前からそこに在るものに打ち克ち、これを取り除いて自らがその位置に居座る」という、身勝手な言葉なのである。このことは、前にアイヌ語日本語同系論を主張した時に、「 paykar an 春が来た」という語句の説明をした通りである。春というものは、おっとり優雅にやって来るものでなく、恐ろしい厳しい寒さの冬に打ち克ち、これに取って替わって今ここに在るのだと。アイヌの古人はそう考えて、春( paykar )というものは、単に来る( ek )ものではなくて、冬に取って替わった( an )ものだと表現したのだと。だから、「春が来た」という観念を表現する古アイヌ語というのは、かつては「 paykar ar. 春が・取って替わった。 」と言ったのではないかと私は考えるのである。

...物を生産する、造(創)り出すという概念は、 ta に ar が結び付いて、化学反応を起こしてこそ、そのとき初めて出来上がるものであることにご賛同頂けるだろうか。「 tar 」の誕生であるが、このあとの「 tan 」そして「 tap 」への展開については次回以降の楽しみとして頂きたい。
    (次回につづく)



by atteruy21 | 2019-01-28 11:26 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー159 (通巻第510号)
 遠方に霞(かす)んで見える「縄文語」と、古い大和言葉から現代のアイヌ語へと、それぞれを結ぶ細い糸であり梯(かけはし)となる「 ta 」という共通の語彙(音・おん)が、「何かを打つ」という観念を太い根として、周囲へ大きく萌(も)え広がって行くというイメージが、あなたの脳裏に浮かんだだろうか。「 ta 」という語彙は、「打つ」という根から「何かを取り出す」という、言わば、萌え広がって地上に顔を出す木の「芽」の部分までがその守備範囲に入るのだが、冷たい土を掻き分けてニョッキり頭を地上に突き出すための、そのエネルギーはいったい何処からやって来るのかという問題にも眼を向けないといけないのである。

▽ 「打つ」が、どのようにして「取り出す」という観念に結び付くのかという問題である。その秘密は、恐らくは、その打つという行為の対象が何なのかということからしか導き出すことは出来ないだろう。その打たれる何かが、己(おのれ)のうちに神秘のエネルギーを秘めているのに違いない。
▼ その何かを撃つことによって、人は価値ある何者かを手に入れることが出来るのである。しかも、人の生きる上で必要となる殆んど全ての物を。その打たれることを通じて人に全てを与える者と言えば、答えは一つしか無い。ご推察の通り、それは、あの大地である。古人は、大地を打ち土に働きかけて、生きる糧(かて)を神から与えられたのである。またそれは、大地に限られる事なく、森羅万象(しんら・ばんしょう)のあらゆる物に働きかけて、そこから恩恵を受けるという観念を産む。アイヌの先人を含め日本列島に生きた古(いにしへ)の人は、ありとあらゆる存在に神性を認め、これをカムイとして畏(おそ)れ敬った。

◎ アイヌ語「 ta 」のほぼ反対側に、「 kar 」と言う語彙、観念がある。大和言葉の「狩る・刈る」にも繋がる、あの kar と言う言葉である。この「 kar ・狩る・刈る 」という言葉は、自然界から何かを収穫するという意味であるが、同じく神から与えられるにしても、神からの賜物(たまもの=プレゼント)を、手を加える事なくそのまま頂くことを含意している。
...前にアイヌ語学者の中川裕教授のアイヌ語辞典で「 kar 」の項目を覗いた。そこでは、...
☆ カラ kar 【動詞2】~を摘む。~をもぐ。~を採る ; 木の実、山菜、キノコなどを刃物を使わずに切り取ることをいう。...とあったことを記憶しておられるだろう。教授も指摘されるように、 kar という言葉は、手を加えて物の性質を変えたりせずに神の恩恵をそのままで受ける観念を表している。
 これに対し「 ta 」と言う語彙は、人間が何かに働きかけて、それを価値高い別の何かに変えると言う、より高次の概念を孕む新たな段階に達した姿なのである。人間が自然に働きかけ、自然を変え、或いは自然には無かった何者かを「造り出す」という、
「生産」という観念に近付く一歩を踏み出し始めるのである。狩猟採集の縄文から、稲作と道具の生産の弥生へと。
...次回は、 ta に付けられた ar と言う語の解析に入る。   (次回につづく)
 

by atteruy21 | 2019-01-27 13:36 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー158 (通巻第509号)
 未だその存在の公式の確認すらされていない、「縄文語」などというイメージだけが先行して実態の伴わない「想定言語」を前提にして論を進めるのは、極めて無責任であり危険なことである。だから、まともな研究者たろうとする人は、私のような不確かな論理の組み立てをして、それで問題提起をするようなタイプの人間を、一般的に好まない。それは、物事を深く考えようとする人のとるべき基本的な態度であり、私もそれは否定しない。ただ、専門外の問題に素人であることの特権を最大限に生かして、自由に発想し考えをこねくり回して、そのお蔭で専門家の思いもよらないアイディアを、それも、鋭い本質を突いた考え方に、偶然に行き着いてしまうなどということが、ごく希にではあるが、有るのである。

▽ その地図には無い宝島の発見を目指して、「 ta → tata → 打つ 」の秘密を解き明かす船旅を続けよう。大和言葉の打つの様々な意味の広がりを、辞典を繰(く)ってもう一度確認して見るのも、無駄ではないと思うのである。

...先ず、古語辞典から    うつ【打つ】(他タ四)
 ①たたく。打ち付ける。 ②砧でたたいて布のつやを出す。 ③(杭や柱などを)打ち込む。 ④(立て札や額などを打ち付ける。
⑤金属をきたえて物を作る。 ⑥投げつける。撒(ま)く。 ⑦(打つような動作で)耕す。《例文》「打つ田には稗(ひえ)はあまたにありといへど」=(現代語訳)「耕す田には稗はたくさんあると言うけれども。」 ⑧(線やしるしを)つける。 ⑨勝負事や興業などをする。行う。...以下、省略。
...続いて現代国語辞典では  うつ【打つ・撃つ・討つ】と括った上で総括的な意味合いとして四項目を挙げ、
[一]物を他に激しい勢いで当てる。 [二]打ち付ける。 [三]遠くに投げるなどして当てる。 [四]効果を狙って、あることをする。...などとして、幾つかの例文を示している。

▼ 縄文語(?)の「ta 」という言葉から発展したと見ることも出来る大和言葉の「打つ」という語彙は、辿り着いた最後の意味に
「何らかの目的・狙いをもって、その実現を図る一連の行為」と言う概念を獲得した。これと全く同様に、アイヌ語の「 ta 」も「打つ」という基本語意を中心に、様々な方面の意図の実現行為を意味するようになって行ったのである。

☆ アイヌ語の「 ta 」という語彙が、舟を彫り出すだとか水を汲むだとか、畑を耕すだとか、一見して意味の纏まりを感じさせない広い意味合いを包摂できるのは、正にこの目的の実現行為と言う一点に理由が有るのである。
   (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-26 13:05 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー157 (通巻第508号)
 
 アイヌ語の「 ta 」という語彙が表す意味合いの中心となる核の部分には、「打つ」という観念が横たわっている。これは、
同じ「縄文語」を共通の祖先に持つ大和言葉にも、似たような音の響きを持った語彙があり、ほぼ同じ意味合いが受け継がれていることは前に述べた。

▽ そのアイヌ語の「 ta 」によく似た大和言葉で「打つ」の意味を表す語彙とは、「た」ないしは「たた」という言葉、イヤ、
言葉と言うより音(おん)である。大和言葉の古語に有ったのではと私が考えている、この「た」ないし「たた」と言う音は、次第次第に「打つ」と言う語に取って替わられたが、その往時の力強さの痕跡だけは「叩(たた)く」と言う言葉や「父」と言う語彙に残っている。父(ちち)と言う語は、「た」とも「たた」とも音が違うではないかと思われるに違いない。だが、父親を「ちち」と
発音するようになったのは、ごく最近になってからのことなのである。「父」の発音は「たた」から始まって「てて」と呼ばれ、「とと」に変わり、五十音表の「た行」を行ったり来たりと言う変化を経たものなのである。

▼ 「打つ」と言う意味が、古い大和言葉の「父親(たた・ちち)」という語彙の中に痕跡をとどめているという言い方が理解できない方もおられるだろう。もっともな疑問である。父と打つは全く関係が無いだろうと。現代人の感覚では、その二語は正に別の語彙であるに過ぎない。しかし、ほんの百年、イヤ、五十年前の日本でなら、「父」イコール「打つ人」という等式は、無理なく理解されたろう。父親とは、打つ人であり叩く人であった。だから、「叩く人=たた」と呼ばれたのである。なお、父が打つ人であったのは、何も日本列島に限った話ではない。お隣の中国では父を表す文字に「父」という漢字を発明したが、この「父」という文字は、人が(父親が妻や子を打とうと)頭の上に棒を振り上げた姿を象(かたど)ったものだと言われているのだが、このことは前にも触れた。

◎ アイヌ語の「 ta 」は、大和言葉の「た・たた」と同様に、「打つ」をその根本義とした。そしてそれは、のちの時代に成立した大和言葉の「打つ」と言う動詞が、「目的を実現するためにする」と言う共通の概念で括られた、広い範囲にわたる様々な行為の代動詞の役割を果たしたのと全く同一の機能を、アイヌ語の「 ta 」も担ったのである。大和言葉の「打つ」と言う言葉の様々な分野で使われた意味については、前にも述べたことではあるが、次回に改めて古語辞典の記述を見ていただきたいと思っている。
    (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-25 17:03 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー156 (通巻第507号)
 アイヌ語の「 tan 」には、単に「今、そこに在る」と言う意味だけでなく、「なぜ、今、そこに在るのか。どのような経緯で存在するようになったのか。」という、自らの出生の秘密をも語る意味が内包されているのだ。そのように私は考えている。このアルファベットで書けば僅か3文字で綴(つづ)られる音(おん)に、本当に、そんな溢れるほどの意味が盛り込めるものなのか。

▽ ごく最近にこのブログを覗いてくれた人もあろうから、 t - a - n という3文字に秘められた大量の情報を、改めて皆さんの眼の前にブラックボックスから一つ一つ取り出して、手品よろしく並べて見せよう。
...先ずは、所謂(いわゆる)「縄文語」なのかも知れない、古アイヌ語の「 tar 」と言う語彙の解析から始めよう。「 tan 」を
説明すると言いながら、いきなり「 tar 」と言う別のものから説明をし始めるのでは、親切な道案内とは言えないだろうから、道順の説明が必要だろう。
...①古アイヌ語「 ta - ar 」→ ②同「 ta - r 」(重複音 a の解消) → ③アイヌ語「 tan 」成立(語尾の子音の音韻変化)

▼ ここで、古語アイヌ語「 tar 」の、満(まん)を持(じ)しての登場である。なお、この古語アイヌ語「 tar 」と言う語彙は、私が勝手に復原したと主張しているだけのものであって、文献その他でその存在が確認されたものではないことは、予めお断りして置く。ただ、素人とは言え自分なりに細かな検証をした上での主張であるから、只の素人の戯言(たわごと)とは見ないで頂きたいと思う。復原語彙である「 tar 」は、従って、現代アイヌ語の「 tar 背負い縄 」とは、もちろん関連の有る言葉ではあるのだが、直系のご先祖様ではないことを申し添えて置きたい。
...「 ta-ar 」の分析から始めよう。「 ta 」は、現代語にも残る「 ta 」と基本的に重なる概念を表す。ただ、現代語よりも、その表す範囲が広く、かつ意味が深い。

◎ 現代アイヌ語では、「 ta 」は「掘る」、「彫る」、「汲む」などと訳される。それらの訳語は、意味合いに纏(まと)まりが無い上に、それぞれが我が道を行くで意味が特化して、同一の「タ」という音で語られるべき自己同一性が失われてしまっているのである。辞典に一つの項目として載っている「 タ・ ta 」という語彙が、果たして本当に一つの語彙の、違う意味を包摂した形であるのか、それとも偶(たまたま)同じ発音になった別の出自の語彙なのか。誰にも納得の行く説明が出来ないのである。
 
 ☆ 刊行されているアイヌ語辞典のどれを見ても、この「 ta 」という音のアイデンティティを明かしてくれる辞書は見当たらない。悲しい限りである。次回は、この「 ta 」の意味の深い解析から始めよう。  (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-24 11:14 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー155 (通巻第506号)
 アイヌ語で「 tan タン 」と言うと、連体詞の「これ・この」という意味だ。アイヌ語学者の中川裕先生の辞典で「 tan 」の項目を見てみよう。
☆ タン tan 【連体】①この ; 眼前にあるものを指す。②物語中の用法として、目の前にいる相手に呼びかける場合に用いる。
《例文》tan hekaci iteki cis タン ヘカチ イテキ チシ 「そこの子どもよ、泣くのではない !」...とある。

▽ 少し古風に言えば、「これ、子どもよ、泣いてはならぬぞ。」となろうか。「 tan 」は、「これ・この」と和訳される。
この「 tan 」という語彙が形成される道筋は、「 ta ここ 」+ 「 an ~に在る 」だと考えられている。文法的に論理的に考えて、この道筋は合理的で説得力がある。しかし、私はこの解釈では何か物足りないのである。この語の中核概念が「そこに、目の前に在る」だというのなら、その眼の前の場所に、どういう形で「在る」ようになったのか。この事が語られなくてはならないと私は思うのである。「 tan 」という言葉は、その出来上がり方それ自体に、既に、この「何故ここに在るのか」という問いに答える意味が込められているのである。

▼ 前に、アイヌ語と日本語の親族関係を論じたとき、具体的には日本語の「在る・有る」とアイヌ語の「 an 」を比較対照した時、
この二つの民族の、同じ意味をもち、殆ど同じ発音をする語彙同士が、同一の源に発する、縄文語という同じ親を持つ兄弟の言葉だと述べたことを思い出して頂きたい。
...もう少し分析的に「 tan 」という語彙を観察してみたい。「 ta タ 」という言葉だが、本当に「これ」とか「ここ」という意味に尽きるのか。もし仮に「 ta 」の一語で「これ・ここ」を表すのであれば、「これ」や「ここ」を言うのに余計な「 an 」などを付属させる必要など無い筈(はず)であろう。「これ、この物」と言いたければ、単にアッサリと「 ta-p タプ 」と言えばそれで良いのだから。

◎ 「 tan 」という語の一部をなす「 ta 」の発音は、「そこに・眼の前に」と言うより、全く別の次元の、異なる意味が有るのではないかと私は考える。それは例の「大地を打って、自然に働きかけて...」の、あの「 ta 」である。そしてその語彙は次には当然に、豊かな大地から取り出し、今、眼の前に在る」と言う観念を求め、それまで無かった物が人間によって作られ姿を表すと言う概念を表す「 ar = とって替わって姿を現す 」を従えて、そこに「 tar = ta -ar 」という語彙を生み、それが更に語尾の子音の音韻変化により、「 tan 」このアイヌが作った物という語彙が成立するのである。
   (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-23 11:31 | Trackback | Comments(0)

生産活動に見る縄文と弥生ー154 (通巻第505号)

 回り道の道草喰いが過ぎて、何を追求していたのか分からなくなってしまった。足許の明るいうちに宿屋へ入って、明日からの旅の準備をしなくては...。さて何処まで話したのか。そうだ、大阪のオバハンの「聞きたないわ !」の所までだった。閉音節の語尾の子音というものは、他の子音に変わったり、挙げ句の果ては消えてしまうなど、移(うつ)ろい易いものだという話までだ。

...見たし・ mitas(i) → 見たふない・ mitah-nai  → 見たない・ mita-nai
 ご覧のように、語尾の単独の(母音を伴わない)子音のエスが、エイチに入れ替わり、終(つい)には消失してしまう。

▽ 「我は故山に帰りたし」の『たし』の世界から、まだ観察の途中だった『たり』の世界に戻って行こう。あの石狩川が、戻り戻りするように、アイヌ語の子音語尾の変化の法則の探求に戻って行こう。
...アイヌ語の「 tar 」の語尾の子音「 r ・アール 」音が、「 n ・エヌ 」に入れ替わるということが、容易に起こり得る事であるという考え方は、今のあなたには、もう抵抗なく受け入れられるものだろう。
「 tar 何かに働きかけて、何か貴重な物を取り出す 」という語彙が、( ta-ar という合成語という意味では「語句」と位置付けるべきなのかも知れないが)語尾の変化によって、「 tan これ・これなる 」という語彙(語句)に、意味が大きく変わって行くという問題に、その秘密の解明に取り組もうという訳である。

▼ 「働き掛ける」とか「取り出す」とかいう、何れも明確な概念を持った動詞の語句を、品詞が違い、従って役割も全く異なる連体詞の「これ」という言葉とイコールで結ぼうなどと言うのは、正に正気の沙汰(しょうきのさた)とも思われない問題外の見解だと、常識を持った人ならまず理解の出来ない位置付けを私はしようと言うのである。騙されたと思って、まず、聴いて頂きたいのである。

◎ 「 tan ・これ 」というアイヌ語は、普通、「 ta そこに・目の前に + an 有る・在る 」と分析される。これは、間違いではない。この言葉は、人が目の前に在る何かを指差して、或いは手にとって「 ta -an これ・なる 」という形で用いられる。
 神に感謝する祈りの場で、アイヌの古老が収穫物を掲げて恭(うやうや)しく「 tan(tapan) pe anakne ...=これなる物と申しまするは...」と語りだす。ここで言う「 tan 」と言う語には、「これ」では語り尽くせない深い意味が込められているのだ。
    (次回につづく)

by atteruy21 | 2019-01-22 11:33 | Trackback | Comments(0)