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縄文語のかけらーその865 (通巻第1550号)
 🌉 《再掲》縄文語のかけらーその421 (通巻第1106号)
...チノイェタッ( cinoyetat )と言う名の道具がある。日本で言えば松明(たいまつ)に該たる照明用具で、よく時代劇などで山に逃げ込んだ咎人(とがにん)や戦の落人の探索の山狩り等のシーンに出てくる、あの追手たちが手に持つ松明と同じ物である。
 ⭕ この語句は、 ci-noye-tat = 〔我々が・よじる・樺(皮)〕という構成の文になるとされるが、道具として用途を表す言葉としては説明が不十分で、和訳の仕方に問題が有ると私は思っている。

▽ チノイェタッ(樺の皮の松明)の作り方
...言葉の分析の前に、まずチノイェタッがどんな物なのか、それを知るのが先決だろう。
 🔹 中川辞典 cinoyetat ...樺の木の皮を(剥いで乾かしたものを)巻いて、平たく押し潰したもの。先を割った棒に挟んで火を付け、灯(とも)しとする。 ; ← ci 「我々が」+ noye 「~をよじる」+ tat 「樺」

▼「 tat 」は「樺の木」 ? ...それとも「樺の木の皮」❔
...中川氏が語の最後の部分の「 tat 」に「樺」の訳を当てたのは省略形で、チョッと手抜きの御愛敬だろう。勿論、「 tat 」は樺の木のことで、ここではその皮を指す。樺の木はチョッと固くて捻り難いから...。
 🔴 乾燥させた樺の皮は、捻(ねじ)って捩(よじ)ってやると適当な固さの松明の燃料になって、長時間燃え続けるのだ。通常はこの乾燥樺皮を棒の先に付けて、携帯用の松明とするのだが、棒の先に付けず直接に手で持って明かりとする場合もあった。

◎ 「我々が・捩る・樺皮」だと...いったい何処が可笑しい ❔
...実際のチノイェタッを知っている人なら、樺皮を捩って松明にするのだなと分かる訳だが、「我らが・捩る・樺」だけで文が終わってしまうと、実物を知らない人には、何に使う道具なのか迄は分からないと言う事になる。

☆ 何に使う道具か、分かる為の命名は ❔
...「我々が渡る橋」と地名を付けるとしよう。この3語だけで文意が完結して全体の意味がとれる。だが「我々が捩る樺」では何を言いたいのか、意味が採れない。
 🔷 「我らが・樺皮を・捩って作る・灯り」となれば、十分に意味が採れる。
 ...cinoyetat は、「捩れている樺皮」を意味する松明用の燃料を指すだけの言葉だと私は考える。

★ 「 ci-... 」の意味の詮索はこの辺で切り上げて、元々の出発点である「チパシル」の噺に戻って行こう。
      (次回につづく)

# by atteruy21 | 2021-12-09 14:39 | Trackback(3) | Comments(0)

縄文語のかけらーその864 (通巻第1549号)
 🔴 《再掲》縄文語のかけらーその420 (通巻第1105号)
 ...アイヌ語では、何らかの用途を持つ品物を表す言葉に「 ci -...・~(動詞)・ -p(e )」という構造を持った造語法がある。
 例えば、「 ci-koyki-p (獣・魚)=【我らが・獲る・もの】」とか、「 ci-e-p (魚・チェプ)=【我らが・食う・もの】という語があり、そして前にも紹介した「 ci-karkar-pe (刺繍)=【我らが・念入りに作る・物】」という語まである。

▽ 【我々が...】では説明のつかない定型語句がある ❗
...「 ci- + ~(動詞)+ p (e )」という構造を持った語句で、定石通り「我らが・何々する・もの」と訳しては説明のつかない特別の名詞がある。
 ⭕ アイヌ文学の古典、ユカラ( yukar )に「 ci-tuye-amset ・チトウイェアムセッ (別造りの寝台)」という雅語が登場する。
 《例文》 a=ante hok / ape etok ta / cituye amset / amset ka ta ...
  我が夫(つま) / 横座に設(しつらえ)し / 切れたる寝台 / その寝台の上に...

▼ ci-tuye amset....切れたる座台・切れている寝台
...アイヌ語学の大先達(せんだつ)・金田一京助(きんだいち・きょうすけ)博士は、この床しい「 ci-tuye 」と言う構文に、中相(ちゅうそう)という語法の解釈を施した。
 🔷 「中相」というのは、所相(しょそう≒受動態)とは幾分か趣を異(こと)にする文法上の概念で、例文に即して言えば、主人公の少年神の為に、本体の大きな寝台から切り離されて造られた小さな寝台で、物語の中では「別造りの座台」と訳される。

◎ 切り離された寝台だから、受動態(所相)としても良さそうなものだが、そこはアイヌ古人の観念と印欧語群に見られる受動態(the passive voice )の考え方とは相容(い)れない微妙な違いが有るのである。
...旨く説明できないのだが、大雑把に言って「切られる」という受動態の観念と、場合によっては被害者の感覚と、アイヌ語の
cituye の語感とは何処か噛み合わないのだ。

☆ 森で倒木を見つけると、その木は「切られた」のではなく「切れている」とアイヌは考えた。
...森の中で木が倒れている。何処かの樵(きこり)が切り倒して置いて行ったのか、それとも風で吹き倒されたのか。老木が朽ちて自然に倒れたのか。木は何によって倒されたのか、どうして倒れたのか、アイヌは気にしない。
 🔶 大自然の中では、その犯人を探すなど何の意味も無い。
 ...中相の意味はお分かりになったろうか。受動態との違いは ? 「誰がしたか」...などという些末な問題は、アイヌの観念の中では重要ではないのだ。      (次回につづく)

# by atteruy21 | 2021-12-08 16:17 | Trackback(2) | Comments(0)

縄文語のかけらーその863 (通巻第1548号)
 《再掲》縄文語のかけらーその419 (通巻第1104号)
...接頭辞(人称接辞 ? )の「 ci-... 」を用いた語法で、「 ci- 」の原意を窺(うかが)い知るのに最適と思われる言葉がある。
 ⭕ 中川辞典 チタタプ ,- ピ 【名詞】魚の氷頭(ひず)などを生のまま細かく刻んだ料理。
  ... ci= 「我々が」+ tata 「~を刻む」+ -p 「もの」

▽ 氷頭(ひず)...鮭などの頭部の軟骨のこと
...鮭の頭部の薄い軟骨は透明で、まるで氷のようだと言うのでこの名がある。日本料理では包丁などで細かく刻んで膾(なます=酢の物)にして食べることが多い。
 ✳ アイヌ民族の場合には、細かく刻むだけで酢の物にはしないが、刻んだことで生まれる深い味わいで、アイヌ民族のソウルフードだったと言う。似たような料理法で、日本料理では「鯵の叩き」がある。鯵の肉を包丁で叩き切りして葱などを和(あ)えて醤油で味を整えた極上の逸品(いっぴん=優れた品)である。
 酒のつまみに最適で、私などは、味につられてつい酒量が進み、翌朝は二日酔いになる事が多い。

▼ 「我々が・刻む・もの」の訳は本当に正しいのか ❔
...何故「 ci-...」という接辞が使われるのか、既にその謎解きに入っているのに気が付かれただろうか。鯵の叩きと同様に、鮭の氷頭の刻み物は、深い味わいで人を魅了するのである。
 🔴 鮭の氷頭や鯵の叩きというのは、刻む(叩き叩きする)と味の深みが増すのである。叩き叩きすると旨くなるのだ。だから、誰だって旨い氷頭を食べたくて氷頭を刻む訳(わけ)だし、鯵は叩きにして食べるのが通(つう)なのだと。

◎ 鮭の氷頭は刻む...そのように食べるべき物なのだ ❗
...「 ci- 」という接辞が人称接辞なのかどうか、今更問わないことにしよう。アイヌの先人たちが「それはゼッタイ人称接辞だ。イヤ、接頭辞だ ! 」などとこの言葉を巡って文法的な位置付けを争うことなどあり得ないからだ。
 🔷 文法論議は兎も角として、アイヌの古人たちが、何かを為す時に、それがカムイの定めかどうかは別にして、その行為をするに当たって従うべき、行為の範疇(はんちゅう=枠組み)があり、その範疇に従うことがアイヌに(人間に)とって良いことなのだと言う意識を持つに至ったこと、それだけは確かなことだろう。

☆ 誰に命令されるでもなく、自然に何時の間にか誰もがそうしていた...そう言う規範意識の原型とでも言うべきものを、「 ci-... 」という音を通じてアイヌ民族は育てたと私は考える。
    (次回につづく)

# by atteruy21 | 2021-12-07 16:17 | Trackback(13) | Comments(0)

縄文語のかけらーその862 (通巻第1547号)
 《再掲》縄文語のかけらーその418 (通巻第1103号)
...ci- の付く構文で、刺繍着( cikarkarpe )比較すべき語彙に「 citarpe ・蓙(ござ)」という言葉がある。この語の構成は、
「 ci-tar-pe 」つまり「誰もが・手間をかけて作る・もの」だと見られるのだが、その見方には大きな問題点が有って、それはこの語義の中心点を成す、肝心の「 tar 」という音に、現代アイヌ語には対応する動詞が見当たらないと言う点である。

▽ アイヌ語の「 tar 」には、名詞の「背負い縄」以外に動詞の意味があるか ❔
...「 tar 」という音を持つアイヌ語で、名詞の背負い縄以外に、動詞で「手間をかけて作る」といった類いの意味を持つ言葉が有るのか、或いは少なくとも昔は有ったのか、ということになる。
 ⭕ 以前の私の論考で、参考になると思われる部分を再掲したい。

▼ 《再掲》生産活動に見る縄文と弥生ーその118 (通巻第469号)
...チタラペ(蓙・ござ)という語やチカラカラペ(刺繍衣)という言葉の、語形と意味の相関の考察を通じて、タラ( tar )という音が「手間をかける(て作る)」という概念を含むことが分かった。だが、何故そう言えるのか、その推定の根拠を考えよう。
 🔷 tar という「動詞」の復原は可能か ❔
 ...「背負い縄・tar 」という名詞は、何らかの効果を狙って行う合目的的行為という、より高次の概念を獲得して行ったと、そう私は考えている。

◎ 「 tar 」は、「縄」という意味だけを表す、単純な構造の言葉か ? ❗
...【 tar 】という言葉は、元々、長く延びた、繋がったものと言う意味が有ったようで、それが「縄」という語彙に結び付いたのであろう。
 🔺 恐らくは植物の蔓(つる)や蔦(つた)がこの語の最も古い語義だろう。

☆ tar-ne 「縄(=蔓)状・である」→「 tan-ne =長い」
...「長く延びた・長い」を、アイヌ語では「 tanne =縄(蔓)状である」と表現する。
 ✳ その長く延びた物の性質が何らかの特質を帯びる、そう言う感覚が「継続して何かを行う」とか「何らかの状態(或いは行為)が継続する」という意味を導くのだ。

★ 随分と雑な、且つ強引な論理展開で我ながら気が退ける。次回、丁寧な説明をしよう。「手間暇をかける」の語義に辿り着くまで、前途遥遠だが頑張って行こう。   (次回につづく)

# by atteruy21 | 2021-12-06 15:54 | Trackback(2) | Comments(0)

縄文語のかけらーその861 (通巻第1546号)

 《再掲》縄文語のかけらーその417(通巻第1102号) (続き)

 ⭕ 「 Ci -... 」は動詞に意味を添える接頭辞(= prefix ) ‼
 ...あなたは次のような疑問を懐(いだ)かれたかも知れない。仮に「我々が...」に替えて、「誰もが...」という構文に解釈をし直すと言っても、結局は接辞・人称(= person )の種類の違いに過ぎないのではないのか、と。

▽ 熟語から窺い知る ...「 ci-... 」の原意 ❗
...「人称(接辞)」なのか、それとも動詞の補助機能を持つ「接頭辞」なのか。それを決めつけないでも、その関係の発展の経過を暗示する、よく使われる語法がある。
 🔷 チカラカラペ(刺繍着・縫い取り)、チタラペ(蓙・ござ)...これらの言葉から何が見える ❔
...私は「 ci - 」という語形に「誰もが~する」という意義を与える。そして、「誰もがする」という事は、取りも直さず人の当為(とうい=~すべき)の観念に結び付き、「当然に~する」とか、或いは「(人は)~すべきである」という高次の概念に発展して行く。在るべきこと、為すべきことの sollen の世界への発展が起こるのだ。

▼ ci-karkar-pe 「誰もが・作り作りする・もの」
...それは、美しい模様の刺繍着である。通説では「我々が・縫い取りする・もの」が語源とされる。刺繍と言うのは、肩の凝る手間のかかる作業で、アイヌの女性たちは精魂込めて刺繍着作りに励んだ。
 🔴 逐語的には「誰もが・作り作りする・もの」となる。「作り作りする」という重ね言葉は、手間暇(てまひま)かけて精魂こめて作るという意味で、価値の高い美しい刺繍は、当然それだけの苦労を重ねて、それで初めて人を魅了する美しい刺繍が出来るのだと...。
 ...手間をかけて、苦労して作るべき物...それが Ci-karkar pe なのだと...。

◎ 次は【 citarpe ・チタラペ】=「蓙・ござ」と言う語の解析の番だ ❗
...それを語るだけの紙幅が無いので、次回は「縄文語のかけらーその418(通巻第1103号)」を読んで頂く事にしたい。
 🔺 チタラペは、蓙(ござ)と訳されるが、只の敷物ではない。飾りにも使われる見事な芸術品でもあるのだ。やはり手作業で心を込めて編み上げる。...次回をお楽しみに。
 
     (次回につづく)

# by atteruy21 | 2021-12-05 13:48 | Trackback(4) | Comments(0)