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『隣家の貧しい和人と此の家の貧しい和人』より

 俺にとってのただ一人の母であるから、死ぬ前に町見物をさせて死なせたいと思って連れて来たのに、...
(17)Patek a=kor-pe a=unuhu ne wa kusu,onne etok ta maciya a=nukare wa a=onnere rusuy kusu a=tura awa...
それのみ我が持てるもの、我が母にてありければ、死ぬ前に町を見せてやって死なせてやりたいと思って連れて来てやったのに

 たった一人の大事な母親だから、せめて死ぬ前に、(楽しみにしていた)町見物をさせてやろうと思って、連れて来たのに、と
言っているのだ。「a=nukare」は、単に「(彼女に)見せる」ではなく、「(母親に)見せてやる」と訳すかどうかがポイントなので
ある。この点は、続く「a=onnere rusuy」をどう訳すかで、決定的な違いを見せる。ただ、「死なせたい」と訳してしまったら、
まるで早く死ぬことを望んでいるもののようではないか。「町見物を楽しませてやって、それから死なせて(送って)やりたい」と
いうのが孝行息子が母を送る態度なのである。
 それが「a=onnere rusuy...」に込められた思いなのである。

 なお、この文例(17)で、アイヌ語特有の、同格を駆使した修飾語法が出てきたので、簡単に触れて置きたい。
 「patek a=kor-pe a=unuhu ne wa kusu,」の部分であるが、ここで「patek a=kor-pe」と「a=unuhu」は、同格である。
 「ただ一人我が持つ者」イコール「我が母」なのであって、母を修飾する言葉が「私が持つたった一人の」という言葉なので
 ある。
 この語法は、よく用いられている。例えば、
 「Iyoyamokutep maciya epitta tono uwekarpa」といった表現である。これは、意訳すれば、「不審に思った城下の侍は、
 みんな集まった」という訳になるのだが、より直接的には、
 「不審に思った者、(=城下の侍たち)皆集まった。」という同格を並列した表現法なのである。
 
 (次回につづく)

# by atteruy21 | 2017-10-07 18:22 | Trackback | Comments(0)

『隣家の貧しい和人と此の家の貧しい和人』から

  「さあ、あなたを連れて行って、ご馳走したくてお招(よ)びするのです。」と言いながら
(15) heta e=tura a=ipere rusuy kusu a=e=tak siri ne na.-hawean kor
  「さあ、あんたを連れてって、ご馳走してやりたいから、招んであげるんだよ。」と言いながら、

  私を連れ込んで、梱(こおり)の中へ入れて、縛(しば)って、息の孔(あな)を塞(ふさ)いだので、...
  i=tura awa kori oro i=omare i=tupetupe hese puyra a=i=ko-seske,...
   無理に私を連れ出して、梱の中へ押し込んで、縛り上げて、息の根を止められて...

 「i=tura」を「私を連れて行く」と訳しても誤りではない。しかし、この文の趣旨は、殿様の娘が無理やり~されるという
 形で叙述されて行くのである。ここでは、「無理に連れ出されて」と訳すのが文章の全体像に沿っている。

   殿様は幾たびも幾たびも手を上下して、此の家の貧しい和人を伏し拝んだ。そして、お歴々の食べる食べ物、
(16) kamuy-tono rikta iwan suy rata iwan suy teta wen sisam ko-ongami,orowa,tono e aep
   殿様は、高く六度、低く六度、此の家の貧しい和人を拝んだ。それから、侍の食べる食べ物、

  お歴々の飲む酒を 食べさせてくれ 飲ませてくれた。そして二枚の大判を下すった。
 tono ku sake a=ere hem ki a=kure hem ki ,orowa tu poro kane a=kore.
  侍の飲む酒を、食べさせてくれもし、飲ませてくれもした。そして、二枚の大判をくれたのだった。

  「a=ere hem ki,a=kure hem ki」を「食べさせられもし、飲まされもした」と訳してはならない。
  勿論、「食べさせてくれもし、飲ませてくれもした」と訳さなくてはいけない。被害者ではなく、恩恵を受けるものとして
 此の家の貧しい和人は遇されているのである。

  (次回につづく)

# by atteruy21 | 2017-10-06 20:54 | Trackback(22) | Comments(0)

『隣家の貧しい和人と此の家の貧しい和人』例文(14)の解説の続き

「nupur」は、巫力(ふりょく)、霊力(れいりょく)、呪力(じゅりょく)などと訳される神秘的な力を指す語彙(ごい)であるが、
もともとは「白いものを出す」、「白濁する」という意味である。

 アイヌは、日本人と同様、高い山などに神格を認め、山の麓(ふもと)から雲や霧が湧くのを眺めて霊力の徴(しるし)であると
考えた。また、大河に川霧が発生したり、河水が白く濁るのを見れば、sirnupur (シンヌプル)「霊力がある・神々しい」と見た。

 この「nupur」という言葉は、偉大な自然やカムイたちに使われるとは限らず、人間においても、英雄とかとびきりの美女は、
白い靄(もや)を身の周りに漂わせ、凡人の眼からは見えなくなると考えられていたのである。

 以下は、「ユーカラ集Ⅱ」Poro Oyna (大伝)第一段「発端」の一部である。
 sapo topochi ine kotan ta ine moshit ta       姉神は どこの村に どこの国に 
 eturbak shirika eturbak nanka okai nankor-a     こんなに美しい容貌 こんな立派な顔ばせが あるであろうか
 Imeru kusu urar kusu anukar boka ewen kane ,..   光のために 靄(もや)のゆえに われ見ることさえ できない...

 ☆[金田一京助氏の脚注]
 偉い人は、その体に靄がかかっていて見えない、と叙(じょ)するのが常套であるが、ここは光と靄のためと叙している。

 この考え方は、日本の民俗的思想にも残っており、神道においては、神は白い靄に包まれ、その姿は人の目からは見えないと
考えられていたのである。なお、nupuri「山」という言葉は、この「白いものを纏うもの」という意味なのである。麓から雲を
生むほどの高い山でなければ、「ヌプリ」とは言わない訳である。
 また、「Nupur-pet 」という地名がある。登別(のぼりべつ)の原名で、「濁り川」と訳されるが、これも「霊力のある川」が
本来の意味なのだろう。もちろん、実際に目に見える川も白く濁っているのではあるが。

 (次回につづく)

# by atteruy21 | 2017-10-06 13:38 | Trackback | Comments(0)

『隣家の貧しい和人と此の家の貧しい和人』より

 いったい、どんな所に値打ちのある代物なのですか?
(14)Neun sino a=i=nupur-pe an ?
 いったい、どんな所に 驗(げん)を顕(あらわ)してくれるものなのですか?

  短い文章だが、長い説明が必要になる。まず「nupur」であるが、普通、「呪力」だとか「巫力」などと訳されるが、本来は
 カムイや何らかの偉大な存在が持つ霊妙神秘な力、ないしはnitne kamuy が持つ恐ろしい魔力・威力などを意味する。
 動詞としての意味では、「呪力・巫力を持つ」、「霊妙(不思議)な力を示す・顕す」などを意味し、既に論じた山や川などの
 偉大な存在が「白いものを身から湧き上がらせる」という意味もある。
  ここでは、「馬の皮」が霊驗(れいげん)を顕すという意味で用いられている。
 さて、知里氏は、原文を解釈するにあたり、「Neun sino a=e-nupur-pe an ?」と、わざわざ「i」を「e」に読み替えた上で、
 「吾々が、それによって、巫力を有するもの=宝物」と解読しておられる。しかし、それでは文の全体の意味が「宝物は何処に
 あるのか」となり、随分トンチンカンなものになってしまうではないか。ここはやはり、勝手に文字を入れ替えたりせずに、
 「a=i=nupur-pe」(その馬の皮が)「どんな所に驗(げん=霊力)を顕して・くれ・なさる・もの・か」と訳して、「a=i=...」を
 二重の敬語表現(くれ・なさる)と解すべきものと私は思う。
 「どんな所に値打ちのある代物(しろもの)なのですか」などという訳は、本来の意味を捉えていないばかりか、不真面目で、
 茶化した態度の、まさしく破壊的な悪文であり、嘘訳と言うしかない。人称接辞と言われるものの意味の取り違えは、知里氏
 程の稀有の天才をして、かくも無惨な誤謬に陥らせるものなのか。
  nupur という言葉に就いては、更に掘り下げておく必要があると思うので、もう少し検討を続けたい。

  以下は、(次回につづく)としたい。

# by atteruy21 | 2017-10-05 20:30 | Trackback | Comments(0)

『隣家の貧しい和人と此の家の貧しい和人』より
 
  何とかして殺してやりたいものだ!
(12)Neun ka ta a=kar yakne a=rayke oka !
   何 と しても (あの馬を)殺してやりたいなあ!
 
「a=rayke」は、「彼(あの馬)を殺してやる」という一方的な力の差、優位性を主張しているのであって、単に「我、彼(馬)を
 殺す」と言っているのではない、ということはご承知のとおりである。
 なお、この文では、隣家の貧しい和人の馬を殺してやりたい、「何としても」という強い願望を表す特殊な構文が登場する。
 ...ta ~oka(y)という部分で、直訳すれば、「...にぞ~であれ(かし)!」であり、この例文全体では、「どんなことをしても
 あの馬を殺してやりたいなあ!」ということになる。

 何とかして、わしが食べて行けるように護っておくれ!
(13)Neun poka iki=an wa ipe=an kuni i=ekoinkar wa i=kore !
 どんなことをしたって、安心して食べて行けるように私を護ってくだされ !

 「iki=an」も「ipe=an」も「私が...」という意識よりも、「余裕をもって、安心して」「することが出来る」ということが、
 意識の前面に出ているのである。それが「...=an」の意味する所である。
  逆に、「i=ekoinkar」や「i=kore」は、大きな力を持つ、御守り(カムイ)になった馬の皮に、此の家の和人は、「~して
 くだされ !」と頼んでいるのである。

  (次回につづく)


# by atteruy21 | 2017-10-05 11:01 | Trackback(3) | Comments(0)