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縄文語のかけらーその255 (通巻第940号)

 日本列島の古い住人の言葉に、場所や所(=ところ・処)という観念を表す「 to (ト・トー)」という語彙が有ったのか。例えば縄文時代の人の言葉に...。だが、そうは言っても、現代の誰もその音声を実際に聞いた人はいないし、近隣の他の民族の残した記録文書に運よく縄文人の言葉が記録されて残っていたという訳でもない。時代を下って弥生時代や古墳時代にもなると、有名な魏書東夷伝倭人条に倭人の話した言葉、地名や人名・官職名(例えば「ミミナリ」=副官)などの幾つかの語彙を知る事ができるのだが、縄文時代の言葉をどれ程残しているのかと言うことになると、大きな疑問符が付くと言わざるを得ない。

▽ そこで、縄文語の面影を最も色濃く今に伝えているのではないかと考えられるアイヌ語の語彙に、この「 to 」という発音を含み、場所や所の観念を表す、そう言う言葉が有るのかと言う噺になる訳である。
...アイヌ語の語彙ないし発音で、「 to 」は湖や沼を表す。更に「 to 」の音(おん)は「日(ひ)」と言う意味も持っている。
なお、その「日(ひ)」は一日・二日の「にち」を意味し、時間を表す概念である。この事は後で触れる。

▼ アイヌ語の「 to 」は、直接には場所や所を表す言葉ではなさそうだ。そこで、アイヌ語と兄弟であると私が勝手に邪推している大和言葉に此処は御出座し(おでまし)頂いて、問題解決への橋渡しの役割を果たして貰おうと思うのである。
...実は、「 to =処・場所 」と言う関係は、大和言葉の方に縄文の観念がより濃く遺(のこ)されているのである。縄文の時代の観念を遺したと思われる地名、場所の噺と言えば、皆さんもう耳に胝(タコ)が出来るほど散々に聞かされた、あの噺である。

◎ 谷戸(やと)・能登(のと)...縄文海進で日本中に広がった地形
...谷戸「 yat-to = 崩れた・処 」  能登「 not-to = 括(くび)れた・処 」
 アイヌ語には明確な形で遺らず、大和言葉の中に命脈を保った「と( to )」という言葉が有ったと私は考える。独立した完全な言葉でなく、複合語の一部としてそれは遺ったのだと...。「 to ・と 」は、それ一語では、「場所」も「ところ」も表すことは出来ない。

☆ 正確に言えば、「 to 」と言う語彙は、「~の処」ないし「~した所」というアイヌ語で言えば「所属形」の概念を構成する語であって、語法の一つに過ぎない。単純な名詞の範疇では捉え切れない次元の違う観念なのだ。
...次回は、アイヌ語と大和言葉の「 to ・と 」を巡る不思議な因縁噺(いんねんばなし)を語ろう。

    (次回につづく)

# by atteruy21 | 2020-04-03 12:37 | Trackback | Comments(0)

縄文語のかけらーその254 (通巻第939号)
 一見しただけでは漢語由来としか見えない「法度(はっと)」という言葉は、実は日本列島の古くからの住人の固有の言葉に源を発するものだった...そんな考え方を長々と述べ、その証明に努めてきた。ここらで明確に結論と言えるものを出して、そろそろ次の話題に移ろうと思う。だが、結論を出すに当たっては、この問題の発端となった日本列島人の古い言葉を、改めて頭の隅から引き出し、その表す観念を再確認し、お浚(さら)いをして、頭を整理して問題に臨(のぞ)む事が大事だろう。

▽ hattar (ハッタラ )と言う言葉...
...日本語の「谷間」という語の話から、アイヌ語の「 hat-tar (= 淵)」の噺になった。日本語の淵もアイヌ語の「 hattar 」も共に川などの深い淀みを指すと言うことが分かった。日本語の「谷(間)」とは少し指し示す範囲が異なるようだと言うことも。

▼ アイヌ語の「 hat-tar 」は、どうやら「 hat 」と「 tar 」の二語を組み合わせて出来上がった言葉で、その二つの部分は、語源的には共に植物の「蔓(つる)」や「蔦(つた)」を意味するということ。そして、その具体的な「物」を表す語義から出発してより高次の抽象的な「繋げる」の意や、物をバラバラにならないように「纏(まと)め、繋ぎ止める」と言った観念的な意味合いを獲得して行ったらしい。...そう言う経過が、関連する語彙の分析と総合により明らかになり、浮き彫りになりつつあるのだ。

◎ 法度(はっと・ hatto )...其処を越えてはならぬ限界
...【 hat-to (果つ・処)=限界 】は、純粋の大和言葉に見えて、実は、より古風な列島語(縄文語)‼
*「 hat 」と言う古い言葉は、アイヌ語の「 hattar 淵 」と同様に、その「 hat 」の一語で単独で川の淵を表す事ができる。
少なくともそれを意味し得た時代が有ったと私は考える。

☆ 暴れ川を押さえ込む、人を呑み込む大蛇を退治する。そう言う神話や伝説を取り上げた。また、古代世界の王や権力者や日本の戦国武将に例をとって、人間が自然の猛威に打ち克ち、或いはそれと折り合いを付けて、民衆の暮らしを護るという観念の発生の経過も見て来た。
...「 hat to 」の語の内の「 hat 」の部分は、川の水や人間の行為の、【越えてはならぬ...】の部分を意味する。しからば、そうだとすれば、残りの「 to 」の部分は、これは何を意味するのか。法度が越えてはならぬ「 果つ=hat ・処=to 」を意味するのが分かっている訳だから、残る「 to 」の部分は必然の結果として【処(ところ)】を意味しなければならない。

★ しかし、どのアイヌ語辞典を見ても、古典のユカラ やウエペケレを読んでも、「 to = 処 」だ等とするものは一つも無い。
...その存在を証明するのが、次の、そして最後の大きな課題であり、難問中の難問である。
    (次回につづく)

# by atteruy21 | 2020-04-02 13:18 | Trackback(4) | Comments(0)

縄文語のかけらーその253 (通巻第938号)

 川と人間の暮らしの関わり、古代の人々の川の氾濫や洪水との戦いの中で培われた意識に就いての話を、私の独断と偏見によることなく、誰もが納得できるような形で説明出来るよう工夫してみよう。日本の歴史から少し視野を世界に拡げて、有名な世界の古代文明の中に川と人間の関係の原点を探る事にしたい。...前回、ちょっと触れたメソポタミア文明の噺である。

▽ インターネット検索 【メソポタミア文明】「シュメール人の項」(抜粋)
...メソポタミア文明は、ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアに生まれた世界最古の文明である。
 BC3000年頃から人口が増え、シュメール人の都市国家が栄えた。ウルやウルク( Uruk )などが代表的な都市で、楔形文字が使われ青銅器が普及した。

▼ メソポタミアでは大洪水が何度も起き、都市の中心にはジッグラト( Ziggurat )と呼ばれる人工の丘が造られた。洪水の話はノアの箱舟の物語に、ジッグラトはバベルの塔の伝説になった。
...都市国家では王を中心とした神権政治が行われ、人民や奴隷を支配する階級社会ができた。王は、莫大な富を持ち、大規模な治水や灌漑(かんがい)を行い、壮大な神殿や宮殿を建設した。

◎ 都市国家の間では戦争が繰り返されたが、BC2600年頃、ウルクがこの地方を統一した。ギルガメシュ( Gilgamesh )は、BC2600年頃のウルクの王である。...以下、省略。

☆ 「メソポタミア」と言うのは、今のイラクに在る地方の名で「 Mesopotamia = 川の間の土地 」という意味のギリシャ語だと言う。ティグリスとユーフラテスの二大河川に挟まれた低湿地という事になる。
...イラクという名を聞くと、現代の標準的日本人にとっては、砂漠の中の乾いた土地柄を思い浮かべ勝ちだが、古い時代には、大小の河川に囲まれた豊かな水と、木々の緑に溢れた麗しい大地であったのだ。

★ 砂漠と石油の国、アラジンと魔法のランプの国という、ステロタイプ(先入観)の固定観念は、この際あなたの頭の隅っこから一切振り払って頂きたい。

* 川と人間の交渉史・文明史...この考え方の上に立って、いよいよ次回は古い列島語の「ハッタラ (淵)」から「ハット(法度)」への語彙の進化の証明の、その最終作業に入って行こう。
    (次回につづく)

# by atteruy21 | 2020-04-01 12:05 | Trackback | Comments(0)

縄文語のかけらーその252 (通巻第937号)
 川の淀みや淵というものに、日本列島に生きた古代の人々は特別な想いを寄せた...等と、如何にも思わせ振りな言い方をして前回の噺を終えた。いったい何を根拠にそんな事を言うのか。いったい何をこの男は言いたいのか、そう思われただろう。

▽ 世界の偉大な文明は、その殆どが大河の流域に産声を挙げた。例えばエジプト文明はナイル川の賜物(たまもの)であったし、メソポタミア文明が、チグリス・ユーフラテスの二つの大河に挟まれた肥沃な低湿地帯に誕生したのも、決して偶然ではない。
...川と言うものが、定期的にやって来る氾濫という事を通じて、一方で作物を育む肥沃な大地をもたらし、もう一方では、村の家々や耕作地を根こそぎ泥で埋め尽くし破壊し尽くす、そう言う神であり魔でもある。これが世界の多くの民族や人間集団が川に寄せた観念の原型である。

▼ 日本列島の古くからの住人たちも、八岐大蛇やら沖縄・屋良漏池(やら・むるち)の主(ぬし)の大蛇など、川のもたらす恵みと災害のせめぎ合う観念の、その狭間(はざま)で神話や昔噺(むかしばなし)を紡いで来たのである。
...アイヌ語の hattar (=淵)という言葉に寄せて、その語義の由縁を分かり易く眼に見える形で教えてくれる日本史の故事、武田信玄に由来する或る事柄を紹介しよう。

◎ 信玄堤(しんげん・づつみ) 霞堤(かすみてい)
...川の氾濫は、戦国武将にとって悩みの種であった。領地に一たび川の氾濫が起これば、それは即ち飢饉に直結し、領民を苦しめ最終的には他の武将に敗れ、自らの領国を失う事にも繋がる訳である。武田信玄が日本全国にその勇名を馳せたのは、その騎馬軍団の勇猛さもさることながら、或いはそれ以上に、川の氾濫を防ぐ特別の知恵を働かせた事にも依るのである。

☆ 霞堤というのは、川の両岸の堤防の一部を意図的に切り裂き、川が水位を上げて愈々氾濫しそうになったとき、その切られた堤防から堤外に溢れた水を流す仕組みである。川の堤防の外側に一種の「遊水池」をたくさん造る訳である。
...この遊水池が、氾濫して堤防から溢れた河水を一時的に吸収し、大規模な氾濫を防ぐ訳である。氾濫が収まり水量が減れば、川の流路は元に戻り、そちこちに淵を成す溜まり池ができる。

★ 嘉手納の屋良漏池(やら・むるち)は、人工の物でない、言わば天然の遊水池であり、溢れた河水が漏れて出来た池(=むるち)であった訳である。
...漏れ池(ムルチ)は、川の氾濫を防ぐ最後の砦(とりで)であり、最後の堤防として人の暮らしを護った訳である。川の淵や淀みに古代人が神格や魔性を認めた訳がお分かりになったろうか。
   (次回につづく)

# by atteruy21 | 2020-03-31 11:44 | Trackback | Comments(0)

縄文語のかけらーその251 (通巻第936号)
 「 hat-to (はつと)」は「果て・の・処」って言う意味だって言うんだったら、それって正真正銘の大和言葉じゃないか ‼...いったい何処にあんたの言う、その「列島のもっと古くからの言葉」ってのが有るんだ ❓...と、そうムカッ腹を立ててはいけないのである。

▽ 古い言葉と言うのは、大地や海など、我々を取り巻く大自然の様子から導かれて成立する...これが私の言語観であることは、このブログの読者ならとうの昔にご存じの筈だ。取り分け、「限界」とか「果て」とか言う抽象的な概念の場合は、目の前に存在する具体的な自然の事物からしか言葉と言うものは導かれようが無いのである。
...果てや限界は、日本列島人の場合には、川の流れに即した形で形成されたと私は考えている。川の流れが人の暮らしを支え、或いは逆にそれを脅(おびや)かす。それが日本列島での暮らしの大きな特徴なのだ。

▼ アイヌ民族の場合には、人々がその生活圏を拡げて行ったやり方は、先ず海辺の村(コタン)に基盤を置いて、徐々にそこから川に沿って上流へ、山奥へと新しい生活圏を拡げコタンを増やして行くというパターンが多かったようだ。
...「川と言うものは、海辺から山へと登って行く生き物だ」と言うのが、アイヌの古人の川の把握の仕方だと言う噺を前にした事がある。川の分岐点をどう表現するかで、現代の日本人と古い時代のアイヌの人とでは全く正反対の見方をすると...。

◎ 「 peteukopi ペテウコピ 」と呼ばれる場所がある。川の分岐点・落合(おちあい)を言う。
...アイヌ語の構成としては、 pet (川が)・ e (そこで)・ uko (互いを)・ hopi (捨て合う)・ i (所)...と、川の分岐点を指す訳だが、問題はこの川が(生き物として)どちらに向かっているのかで、両方の民族は全く別々に考えるのだ。
...分岐点を過ぎると、その先は一本の川になるのか、それとも二本の川に別れるのか。

☆ アイヌは、川と言う生き物は海辺の河口から山奥へと行くものだから、或る地点で互いに捨て合うと聞けば、或る一本の川がそこで二本の川に別れ、それぞれが山奥へと向かう...こう言う風景が頭に浮かぶ訳である。
...一方、現代の我々の感覚では、一本の太い流れが分岐点に来て二本の細い川に分かれて流れ下って行く...こう言う全く反対の映像が脳裡に浮かぶ事になる。

★ ちょっと前置きが長くなり過ぎた。日本列島の先人たちは、川の流れ、イヤ、川の淀みや淵に特別な想いを寄せたのである。
...淵(ふち)という言葉がある。アイヌ語では「 hattar ハッタラ 」と言う。
    (次回につづく)

# by atteruy21 | 2020-03-30 16:14 | Trackback | Comments(0)